有り触れたもの と 有り触れないこと -(仮称)古澤邸の場合-

『(仮称)古澤邸』(設計:リライト_D +日本大学理工学部古澤研究室,2019年竣工)について、そこでの体験と建築家・古澤大輔氏により執筆され、2018年度に発表された博士論文「再生建築における <転用> の建築論的分析及び実践的検証」を通して、実際の建築と手立ての建築(創作論)について幾ばくかの読み解きを試みたい。

幽体離脱した建築
唐突な比喩であるが『(仮称)古澤邸』を訪れてみて最初に思い浮かんだ言葉は、[幽体離脱]であった。

幽体離脱-生きている人間の肉体から、霊魂(魂や意識)が、その霊体と肉体との中間に位置する幽体(アストラル・ボディー)を伴って抜け出すという、心霊主義での現象であるとされ、または、その概念や考え方をも含むもの。(国語辞典より)

並行世界ではなく、実世界にいながら意識は遊離し、浮遊した場所から自身を中心とした世界を俯瞰的に認識できるのである。近年では、脳波の作用した"脳の錯覚"であると聞いたことがある。少し話は逸れたが、そんな"錯覚"を体感したのだ。この建築では、認知と認識を起点とした手立てが召喚されているのではないだろうか。まるで矛盾だらけの私たちとを取り結ぶために設えらていると感じさせる、よく知っていたはずのものが、よく知らない存在感をもつ要素の数々だ。たとえば、コンクリートがいる位置である。抑えられた天高やズレながら繋がる吹き抜け、多用されたガラスもその一つとして挙げられる。これらは、手に握りしめたはずのものが、いつしかスルリと抜け出している感覚にさせるからか、認知と認識の間に違和感が生じ、〈幽体〉を生み出す。実世界を自在に飛び回ることを可能にし、その結果、住宅という機能や社会的な正しさをとりあえず[ ]に入れた、暫定状態を生む。そのことを強く意識したのは、内→外だけではなく、外→内つまり、初めて対峙した時点であったことが何より驚くべきことである。多くの人にとって、内部は体験出来ないためだ。

有り触れたもの と 有り触れないこと                 
〈幽体〉を生むに至る具体的な事柄を読み解いていきたい。まず最初にRC造の躯体を認知する。ところが、柱は四隅になく、中央に十字形のフレームとして存在している。床も梁から分離している。しかも、吹き抜けを介し、床同士はピン角で接している。床は梁の上にのり、柱に支えられているという認識がいとも簡単に崩される。認知と認識の間に溝ができるのだ。次にガラスの境界面を見てみよう。なるほど、内と外を繋げながら離す為の素材と了解し、開放感があると認知する。しかし、十字形のフレームと吹き抜けによる複雑な抜けにより乱反射が起こり、あたかもフレームが拡張した親密感が増したかと思えば、周囲の風景が内部に混ざり込む。矛盾した状態があちらこちらで起こる。ガラスは透明であり、内外を一体にするという認識から離れる。そして、バルコニーを認知すると、その異常さに気付く。決して広くはない平面を4分割し、その多くがバルコニーに割り当てられている。生活の拡張という生易しい認識は及ばないだろう。中に入ってみる。手を伸ばせば触れるくらい低く抑えられた天高と腰壁に関われ住宅としての親密さを認知したと思えば、ピン角で接したスリリングな吹き抜けの連鎖にすぐに取り払われる。生活の場を調整するための断熱材を挟み込んだ躯体とズレる腰壁や最上階の"増築"部、畳みなどの場を認知する。新築を体験しているという認識が抜け落ちる。そして何より、身体に差し迫る梁や床、柱、天井を認知し、驚くのである。多くの建築は、場を切り取るフレームとして存在し、生活に関与しないと認識しているそれらが、生きる上での重要な要素として道具化され緊張関係を取り結ぶのであるから。構造や形式、素材や記号性など一つ一つの有り触れたもののなかから、有り触れないことを見出すことが、それを可能にしているのだろう。

時間と可変                                                                      
前述した状態を可能にしている要素として、コンクリートがもつ、時間のキャンセル性が鍵の一つであろう。コンクリートを用いたRC造は、鉄筋を配し、液体であったコンクリートが固体化する。構造を同等に担う鉄筋がまず隠蔽される。そして、型枠を転写することで、木目や反射という素材感を付加できる。また、砂利などの自然物を抱合しており、洗い出しなどを行えば荒々しい野性味のある顔を出す。木造などに比べ可変性がないとされるが、コンクリートという素材特有の時間をキャンセルするという性質が、翻って、認知と認識の間に揺れ動く、異なる時間軸や可変性の導入を可能にしている。なぜなら、認知や認識は、ある切断面における確固たる物事との対峙なくして、行えないのであるから。フレームによる接合的で、床の分離が示すコンクリートによる連続的という両義性を兼ねた『(仮称)古澤邸』の豊かさの一端を支えている。

制限の透明化       
この建築は如何に生み出されたのか。論文「再生建築における <転用> の建築論的分析及び実践的検証」をもとに、手立てとしての建築についても考える。論文では、物理性・意味性・目的性という大きく3つの軸の視点の導入と各々に対して3つの形而下及び形而上の対となる転用対象を設定した9つに一旦整理した上で、実例とともに示されている。それら再生建築から得た知見としての「転用」を新築に試みた『(仮称)古澤邸』では、スタディプロセスを線型的かつ断絶的と示している通り、スタディの経過で発表された通称バルコニービル(SD2011)を既存に見立てた上で、想定していた用途や家族構成など種々の変化を受け入れるべく、3つの軸における転用を行うという手順を踏む。この創作論は、制限の透明化の手続きを行うことであると考えると腑に落ちる。言及するまでもないが、建築は多くの複雑な条件(クライアントの要望、法規、用途、予算、社会性、時間etc.)の渦の中で育まれていく。少しでも気を抜くと、見かけの「正しさ」ばかりを追い求めた塊になってしまいかねない。転用とは制限の透明化を行う手続きであり、解決するべき条件をひとまず[ ]に入れる、つまり透明化を行い、別の角度(例えば本論では目的性を解決するためには、意味性と物理性における転用から考えている)からアプローチすることで、創作の手がかりを獲得している。誰しもが経験したことがあるであろう、真正面から向き合っている時は解けないことが、思いも寄らないタイミングで頭の片隅に放置したその問いと距離をぐっと縮める。そんな経験に近いかもしれない。周辺から近づく、少し遠回りに思える向き合い方の方法論であり、認知と認識のずれを生む動力になっている予感がしている。これらが、幾重にも重なり、あの建築は立ち現れたと夢想するのである。

言葉のりんご と 絵のリンゴ
言語としての建築を考えてみたい。言語性を持つとは、眼前に存在するモノや3次元として体感している空間とは異なる次元の情報を同時に認識するという仮説である。そして、そのことにより完結した一つの世界としての建築に留まらず、敷地や時を超えて無限にどこまでも繋がっていく可能性をはらむのである。そこで『(仮称)古澤邸』をはじめとして、社会状況など共時性を持つ、門脇耕三氏による『門脇邸』や青木弘司氏による『伊達の家』といった同世代の建築においてエレメント派と称される建築を軸に見ていきたい。なぜなら、これらには言語性が感じ取れるからである。門脇氏は、エレメントはモノそのものであると同時に、時間や地理、社会的な意味を包括した複雑な情報の総体であり、それを活用することがエレメント主義であると示している。(10+1反-空間としてのエレメントより)両氏による建築は実際の体験がなく、『(仮称)古澤邸』との情報量が異なることから細かな言及は避けたいと思う。少ない情報ながら、共通していると思われるその所在について少しでも解釈を進めたい。例えば、紙に言葉で書かれた「りんご」と絵で描かれた「リンゴ」がある。言葉のりんごは、認識の世界で、好悪の感情や香りを含め、見るものにより異なる次元のりんごが現れる。絵のリンゴは、認知であり、見るものの距離感により異なる解像度のリンゴが現れる。この認知と認識の振れ幅を、いかなるりんご(エレメント)の扱いによって建築を実現させているかに3者の違いがあるのではないか。『門脇邸』は、あらかじめ多種のリンゴを用意した上で、その配置や関係性、解像度を操作することで、単体ではなく、多種の関係性の中で見出されるりんごを描いている。多様なエレメントの輻輳により構成されいるのである。『(仮称)古澤邸』は、一つのりんごを描いた上で、それを一旦透明化し、りんごにまつわる認識を深めている。それは、構造自体をエレメント的に捉え、RC造とコンクリートという単一の素材による多様な表情の創出から見て取れる。『伊達の家』は、描いたリンゴとの距離を詰め、解像度を高め、分解していく中で、りんごとは何かを問うている。それは、木造の壁の複層性をスケールを変えた操作が理解しやすいだろう。 菊竹清訓が示した「か・かた・かたち」を援用すると、3者が順にそれぞれエレメントを別の捉え方をしていることの現れであると、ぼんやり浮かび上がってくる。エレメントから考えるとは、誤解を恐れずに言えば、建築のために、建築を考えるということだろう。例えば、階段のようにエレメントの一側面としての寸法体系が、人間の慣習的動作を抱合するが、エレメント自体は、モノそれのみの原理、人間の原理とは無関係に決定されるのが常なのであるからだ。そこで、人間から遊離した原理で創造される場あるいは空間と私たちが新たな関係を取り結ぶために言語を召喚してみる。ネットやSNSの普及で多重人格性を露わにしながら生きる私たちにとって、実空間でさえも、リアリズムの中で目の前にあることだけを正とせず、同時に別のルート、その一つは言語をはじめとした情報によりアクセスをし始めているという、とりあえずの結論である。

世界を押し広げること                                                                                               手立ての建築(創作論)においては、論文の最後に3つの軸や9つの分類で全てが網羅できるわけではないことも明示されている通り、議論の余地はまだまだある。そして、実装された建築においても、"増築部”と位置付けられた最上階のボリュームや素材が、新築部のルールの支配力が強いことや色彩の導入の許容は可能であるか、という問いが投げ変えられる。しかし、『(仮称)古澤邸』という建築の魅力はこの「問いかける」ことにあるのも確かである。世界は、正しさばかりが求められ、ますます窮屈になっている。あたかも絶対的な正解があるように盲信し、その中で安寧することはとても楽である。だからこその想像であり、創造が必要なのだろう。その一つとして、身の回りにありふれている建築をつくること、考えることの意義はまだまだある気がしている。一般的に、創造とは未知なるものを0から創ることであり、それが美徳とされている。しかし、上記のような世界だからこそ、未知なる新しさを生むことだけではなく、今ある世界を押し広げる手立てが必要なのであると思う。有り触れたものの中から、有り触れないことを見出すことは有効な一つであるはずだ。なぜなら、矛盾を受け止め、両義性を兼ね備えることを目指す思考方法であり、世界にはとても幸せな矛盾で溢れていることにこの建築は気付かせてくれるのだから。

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