明るい毒っ気を味わう     -リライト_Dによる産婦人科医院の場合-

明るい毒っ気
「毒」とは何やら不気味で危なげな物言いに聞こえるかもしれない。しかし、自然界では、生存戦略のために様々な動植物が生きる上で必要とし、獲得してきた知恵でもある。また、人工世界では、わずかな成分の違いや摂取量、タイミングにより「薬」として使用され、地続きの関係である。一方で、「毒」は、<いつの間にか摂取してしまっている>という面白さを持っている。(多くの場合、自ら進んで摂取はしないのだから...)
これから立ち続ける長い時間と都市や周辺環境に対し生存するための「毒」を秘かに盛り込む知恵の戦略と、周辺環境や体験した人にじわりじわりと作用する「毒」をこの建築は持っている。開けっ広げな明るさではなく、ゆっくりと染み入るような前を向いた明るい毒っ気を。

「毒」:生存戦略
眼前に建つRC造の小学校、隣の大きな屋敷、同程度の高さの細々としたボリューム群と共に、RC造のフレームの拡張や切断の様相を見せながら、増築や改築をされたかのような複雑な凹凸のある出で立ちの建築である。フレームの持つ拡張や切断の性質を利用し、向かい合うRC造の小学校とのリンク、増改築的な様相は周辺の雑多なボリューム群との親和性を持ち、周囲が投影されたように装う。そして、梁のような巨大なプランターやパイプや鉄骨の構造や設備的な要素を手摺に用いた意味性の書き換えが、その様相を調整している。1階にコミュニティスペースを配し、産婦人科というプログラム、小学校の前、商店街の脇という立地における、時間性にするりと、手を伸ばす。平面は、4.5mグリッドに医院としての素直な諸室機能を少しズラして重ねてある。4.5mという実際には味わった事のない親密な寸法のグリッドによる柱と梁、そこに壁などの面材や様々な材料や要素が立ち上げられ、これらも少しずれて纏っていく。このことにより、均質性は消え去り、界隈性が生まれる。フレームの中で自由に配されたボリュームは、思わぬ快適性に寄与する。住宅地に囲まれた中で、屋根裏的な天窓のある部屋やスリットの窓と性質の異なる部屋となるのだ。構造のフレームとは別に、設備を内包した梁が天井を巡る。構造よりも迫力のある梁のようなものにより、重心が揺さぶられるような感覚の転移が見られる。また、頭の直上に機器がなくなり、視線上では明るさや上への抜けのみを感じる浮遊感が生まれる。メッシュにポリカを重ねた手摺、内部にある湿式のベンチ、小口の洗い出しなど物質の中での複層性を利用した要素たちが場を彩り、解釈に奥行きを与えている。その平面、立面、断面、仕上げのそれぞれの役割を担いながら、少しだけそれぞれが顔を合わせるときにズラしながら配置される。
建築における「毒」の一つは<複雑性>である。ぱっと見で理解できる容易さを避け、様々な角度から解釈ができる余地をつくることだ。社会や周辺の状況に一見、頼っているかのような自律性をもち、体験する人々の経験に厚みを生み出す。
一方で、複雑に絡み合う要素を複雑なままレイアウトすることは、文字通り「毒」になってしまう危険性がある。
この建築が持つ様々な戦略によってこれから如何に生存していくのだろうか。

「毒」:作用
次に、経験的な側面からこの建築を考えてみようと思う。ここである漫画が思い浮かんだ。

好きな漫画家の一人に高野文子さんという方がいる。そのひとつに、不思議な学生寮ともきんすを舞台に展開される『ドミトリーともきんす』という作品がある。
日常の一コマでの、登場人物たちのユーモアに溢れる掛け合いには、物理や文学、空間のことなんかが含まれている。「私」を中心とした、世界からいつの間にか離れ、「世界」を通して私を見ている感覚になるのである。(ここでいう世界とは大それたことではなく、別の角度や距離から考えてみる、という具合である。)
背景や人物に細かい作り込みはしておらず、とてもシンプルな線で描かれている。コマの割り方と色の濃淡、ピントの合わせ方の漫画ならではの作法により、それを成し遂げているのである。くっきりとした線とベタ塗りの人物にピントが合う。その一方で、存在感を失った、スクリーントーンで表現された人物がいる。はたまた、台詞や概念めいたものにされ、ピントが合う。コマが進むに従い、ピントが合う場所が切り替わる。それぞれとの距離感が主題となっている。「私」から離れた世界を感じることは、こうした細やかな物事の集まりによって生まれるのかもしれない、と。

産婦人科医院という場所を想像してみる。多くはとても幸せな瞬間や出来事であり希望と、あるいは、そこに潜む言い知れぬ不安を抱えながら訪れ、過ごす場所だろうか。短いながらも生活する場において、安心感と同時にワクワク感や発見があると楽しいのかもしれない。天窓のある部屋で過ごすことになったと妄想してみる。
<<ふと目を覚ますと、青い空が広がり心地が良い。外が感じられる。気分がいいので屋内を散歩でも。ふと、柱に目をやり、線を辿るように梁に目を向ける。その線が伸びるほうへと、進むと下とつながる吹き抜けから賑やかな様子。その先には、生き生きした緑と小学生が見える。柱と梁の続きが外へ外へ。大きなお家に住んでいるように、あるいは街も自分のお家。冷たいと思っていたコンクリートも暖かな側面があるじゃない。あら、気づいたらこの手摺、半透明なもので挟まれいるのね。なぜかしら。全体が明るく感じられるのかしら。なんて。>>
昨日と今日がまるっきり違う世界になっている、なんてことはないだろうけれど、些細な事の積み重ねが違う世界に導いてくれることはあると思う。それは、入院する人だけではなく、外からだけでも接した人や周囲の環境に何らかのすぐには目に見えない影響があるはずだ。じわりじわりと効いてくる「毒」のように。

コンクリートジャングルの夢
アーネスト・ヘミングウェイの短編集に、『何を見ても何かを思い出す』というタイトルがある。生きている中で、不意に場所や時間を超えて、ある物やある出来事が繋がり微笑ましかったり、ほろ苦がったり、心を擽る瞬間を思い返すという意味が詰まった言葉に思え、妙に気になっている。コンクリートジャングルとは、ビル群や土地がコンクリートに埋められた都市部を揶揄する有名な言葉である。RC造の産婦人科で生まれ、向かいのRC造の小学校に通う。住まいもRC造かも。でも、その豊かな側面を体験していると風景は異なって見えるだろう。都市が離散と連続を繰り返す自分の大きな居場所に感じられることもあるだろう。リライト_Dによる産婦人科医院を体験し、私にもじわりと「毒」がまわり、意外にもコンクリートジャングルには夢が溢れているのだ、という想像が膨らんでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?