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神田伯山 新春連続読み『畔倉重四郎』 2024

《Documenting20240110》
神田伯山 新春連続読み『畔倉重四郎』 2024
於:イイノホール(2024年1月5日〜10日上演)

 確か2021年以来の生伯山。連続読みとなると神田松之丞時代に行なわれた2019年の『慶安太平記』以来で、完全抽選の今回もあまり期待はしていなかったが当選した。結局、前夜祭と連続読み初日の一〜四話を干してしまったが、あいかわらず超人的な言語能力を体感できてよかった。
 現在公式YouTubeチャンネルに上がっている2020年の『畔倉重四郎』に比べると、明らかに余裕を感じる読み方になっていて、ぐっと引き込まれる。以前は間投詞のように何十回も挟まれていた「今しも」という言葉は消え、リズムを作る張り扇の数も少なくなったが、ネタはより少ない語数に収斂され、自然に内容が入ってくるものになった。パワー系講談からエコな読みになったと言えるか。個人的には以前より好ましく感じた。
 5日目はまくらがドライブして気づけば25分ほど喋り、一度下がって仕切り直すという珍事もあった。今回のまくらでは弟子や弟子入り志願者のこと、師匠の神田松鯉の話などが語られたが、以前の毒はすっかりなりをひそめ、自身を取り巻く人々に対する優しさを感じるものになっていた。ちなみに2019年年始の『慶安太平記』では、演芸評論家の矢野誠一とのバトルが勃発し、毎日のようにその進捗とボヤキが語られていたのだった。
 『畔倉重四郎』の内容はwikiに載っているあらすじのとおりだが、今回は六話の「栗橋の焼き場殺し」に震撼させられた。次々と人を殺めいよいよ連続殺人鬼へと変貌を遂げた畔倉は、殺した人間の遺灰が川を流れていくのを見て「あいつらどこ行ったんだろうな。さっきまでわーわー言ってたのに、消えちまった」とつぶやく。私はこの部分を聞いて、連続幼女誘拐殺人事件の宮﨑勤の言葉を思い出した。彼は死んだ祖父について「おじいさんは実際のところ死んだのか見えなくなったのか分からないのです」と綴っていた(宮崎勤『夢のなか』)。畔倉は人が死ぬことを「消える」と表現し、宮﨑は死以前の状態を「見えなくなる」と表現していたのだから、彼らが指しているものは同じではない。しかし、己の眼から見たパースペクティブで人の命を消えたとか見えなくなったと表現する彼らの言葉遣い、ひいてはその世界観に、共通したものを感じないだろうか。この『畔倉重四郎』がどのように成立したのか知らないが、実在した本物の畔倉か、彼と同じような殺人鬼に取材して書かれたものではないか。あるいはどこかの段階で、殺人鬼的心性を持つ者の手が加えられたか。そう思わせるリアリティと気色の悪さがあった。

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