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mRNAワクチン接種で82%流産のデマ

 妊娠初期の妊婦がmRNAワクチンを接種すると、82%流産する ……。そんなデマが英語圏から流れ着きました。これはNew England Journal of Medicineという由緒ある学術誌に2021年4月に受理された論文[1]のデータを悪用し、創作されたものです。端的に言えば「妊娠初期にワクチン接種して妊娠継続中の妊婦さん1000人以上を無視した統計トリック」です。

 学術誌の権威と、論文の著者の努力と、登録された3958人の妊婦さんの心を踏みにじる卑劣極まりないこのデマを、いまだに掲げる人がいる。私はそれに我慢がなりません。考えを改めていただけるよう、記事にします。

[1] N Engl J Med 2021; 384:2273-2282 DOI: 0.1056/NEJMoa2104983

 また、この論文の続報が出ています[2]。妊娠初期にmRNAワクチンを接種した妊婦さんの流産率は12.8%で、通常の流産率と変わらなかったそうです。論文[1]はあくまで速報値を出すのが目的だったのでデマ屋につけ入られたのですが、続報が出た時点でこのデマの賞味期限は終わりと言えるでしょう。早く消えて欲しい…。

[2] https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/34496196/

論文の背景

 ワクチン接種が始まったばかりのアメリカでは、COVID-19の感染拡大が猛威を振るっていました。文献によって値が異なりますが、妊娠後期における新型コロナ感染によるリスクは重症化3倍・死亡1.7倍・早産1.3倍であると報告されています。重症化リスクは若い妊婦さんにとってはそこまで脅威ではないかもしれませんが、40歳台の妊婦さんとなるとかなりのハイリスクと考えられます。そんな妊婦さんがワクチンを接種すべきか否か、判断材料が必要で。ワクチン接種が始まって間もない中、それでもなんとか真っ当な解析を行ったのが、この論文です。

この論文の正しい読み方

 前述の通り、この論文では2020年12月14日から2021年2月28日までの11週間に登録された、ワクチンを接種したアメリカの妊婦さん3958人が対象になっています。Table 3に年齢・人種・ワクチン接種のタイミング・ ワクチンの効果(ワクチン後のCOVID-19感染)がまとめられています。妊娠初期にワクチン接種した妊婦さんの出産予定日は2021年10月頃。ちゃんと出産するまで結果はわからないので、単純な割り算で妊娠の影響を推定するわけにはいきません。そこでこの論文の著者は、出産や流産などで妊娠の状態が終了した827人を母集団にして解析をしました。これは年間の出産・流産・早産など、妊娠イベントの結果を集計した統計の、15週間分のミニチュア版と考えられます。すべての登録妊婦が出産に至っていない現時点では、これがもっともフェアな解析手法でしょう。
 その結果がTable 4で、出産・流産・死産・早産・低体重児・先天性異常・新生児死亡の全ての項目について、COVID-19以前の統計と矛盾しないというものでした。妊娠に関するトラブルはワクチン接種に関係なく発生してしまうので、こうして比較するしかありません。この解析から導き出された結論は「妊婦へのmRNAワクチン接種について、今回の解析では明確な危険を示唆する結果は見られなかった。今後の継続的な観察が重要である。」というものでした。日本語訳の表があるのはありがたいです。

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82%流産のデマ

 このデマはTable 4にだけ注目させ、データを曲解したものです。Table 4の注釈に、20週以降にワクチン接種をした妊婦さんが700人であった、とあります。つまり20週より前にワクチン接種をした妊婦さんは827-700=127人です。流産は20週より前に妊娠が終了するイベントなので、流産した104人はこの127人からしか発生しません。従って20週より前にワクチン接種をした妊婦さんが流産する確率は104/127=82%である、と。
 しかし論文をきちんと読んでいれば、Table 3から14週より前にワクチン接種した妊婦さん1000人以上が妊娠継続中であることが分かります。彼女たちの数字を使って流産率を算出することもできますが、前述の通りそれはフェアじゃありませんし、そんな陳腐な解析ではNEJMには通らなかったでしょう。このデマを作った人間は、そういった正当な統計テクニックに付け入ったのです。そんなテクニックを使うなという意見もあるかもしれませんが、冒頭に書いた通り、ワクチン接種の判断基準となるデータを渇望する産婦人科のドクターに、今年の10月まで待て、と言うわけにはいきませんから。
 前述の通り、論文受理の時点で妊娠の結果が出てる人は流産など何らかのトラブルがあった人に限られます。あえてこのデマ解析の正確な結果を言えば「妊娠初期にワクチン接種した後、なんらかのトラブルで妊娠が中断したのは127人で、そのうち流産は104人で82%だった(1098人以上は妊娠継続中)」です。残り18%は人工中絶と早産、死産。この82%という数字に何の意味があるのでしょう?私には分かりかねます。

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論文の曲解は赦されない

 データの捏造や歪曲は、研究者失格の烙印を押される行為です。こと臨床データの曲解となれば、登録被験者を愚弄する行為であり、学会追放どころか、社会的な失墜につながります。臨床データは人間のデータで、ただの数字ではありません。軽々しく扱って良いものではないし、ましてや誤情報を導くために利用するなど言語道断です。
 また、この論文のデータとなる3958人の妊婦さんですが、彼女たちはどんなことを考えながらワクチン接種を決意したのでしょうか。たとえ理論上は妊娠に影響ないと言われても、実臨床でのデータは何もないわけです。彼女たちのほとんどは医療従事者とされていますので、その理由は様々だったでしょうが。何の前例もない中、この3958人の妊婦さんがワクチン接種を決意してくれたからこそ、いま私たちはmRNAワクチンが妊娠に与える影響について、データに基づいた議論ができるのです。そう考えるとこの論文、なかなかエモくないですか?(学術論文への感情移入が特殊な性癖であろうことは否定しません。)

 だからこの論文を使ってデマを作るって、本当に許せないんです。

 以上のようにこのデマは、NEJMという由緒ある学術誌の権威と、論文の著者の努力と、登録された3958人の妊婦さんの心を踏みにじる卑劣極まりない代物です。もしこのデマを喧伝している方がいらっしゃいましたら、考えを改めていただくようお願いします。

 解析についてはこちらもご参照ください。

じゃあ妊婦さんはワクチン接種すべき?

 では妊婦さんはワクチン接種をすべきか?これに対する私の回答は「かかりつけの産婦人科の先生に相談してください」です。妊婦さんがワクチンを打つメリットは、基礎疾患/行動様式/地域の感染状況などで大きく異なります。とてもデリケートな問題ですし、私にはどうすべき、とは言えません。

 ただし、かかりつけの先生がこのデマを信じちゃうような方でしたら、別の産科医院を探されることを推奨します

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