瑞徠
高校時代に作った詩集です。 痛みと時間をテーマに制作しました。
高校時代に、学年通信に連載していたものです。 お手柔らかにお願いします。
伝えることは内蔵をひっくり返すこと。 皮膚を溶かすこと、暴力的であって、官能的であること 世界に働きかけること わたしが何かを伝えた次の朝 いつも通りの姿で地球が存在していることに安心すること いつも、世界はものすごく広いんだなと実感させられている わたしの身体から発されたことば、書き記した文字… 全ては永遠に残っているものではないかもしれない だからこそ、わたしの考えていることや思いそのものは事実であると 今、存在しているものであると自分自身が確認したくて
音のない世界を見た 匂いのない世界を歩いた 色というものがなんなのか思い出せない世界に飲まれた わたしの中に入って行った人たちは みんな静かに散っていった 眠れない夜に流れ星を落とす生き物もいなくなった 失った命と夜空の星の数は釣り合っていないことを知った 人間が失った輝きの数ほど夜空の星は輝きを増していった 太陽よりも暗い夜を照らす月の方が好きになった 消えない傷があるのに痛みだけが消えていった 単純な細胞でできた身体の中で 繊細な心が分裂しはじめて
わたしのおともだちの言葉にはいつも色と香りと景色、そして感触がある。 おともだちの「おはよう」は干した布団のお日様の香りがする。わたしはその言葉を聞くたびに幸せの階段を駆け上がって行く。 おともだちの「疲れた」を聞くと、わたしはおうちに帰る時のように、張り詰めていたものが溶けていく感覚がする。淡いオレンジ色の夕焼け空のようだ。 おともだちの「バイバイ」は柔らかな真綿のようだ。抜群の抱擁力があって、どんなに辛い時でも後もう1日生きてみよう、と思わせてくれる。 そ
わたしの手の中に何があるんだろう やわらかく透けた水は通り抜け あの日の温もり記憶は薄れていき 手元の温度計も導いてくれるちずもない 手元というものを私の見つけられないとこに隠して すこし遠くを探してみたら あざやかな人たちに会った 透き通る植物があった 大きな虹の橋を渡れた 光の溢れる世界を見た それは私だけの“見っけ“だけど みんな地球のかけらだよ。 手元ばかり見ていたら気づかなかったこと 虹の根元は強いんだよ。
食べたいのに食べられない日も この星の自転についていけない日も 部屋に篭った昨夜の溜息を吸い込んで 雀の囀りを待ち侘びています 階段を使える体力がある夕方とか いつもより30分早く布団に入れた闇の中とか 小さな幸せがいたいところに触れてきて ああ、あかるい涙を誘発させている… 今日は車窓から見える一筋の光にもたれて 読みはじめた本を背骨のように愛でています 「それでいい」と思える私がこれからも側にいてほしい
意味のないことほど意味があるように 彼の右手がポケットから出てくることを 人々が願う平和の一部として溶かしておいた 時と共に亡くしたことにしていたものが重なり合っていって 全てを吸収しきれずに いいところだけを吸い込んで それを過去と呼んでみたり 恋と呼んでみたり 待つことを知らぬ春の訪れとも呼んでみたりした 生命の息吹は行く末を知らず わたしは溶け合う熱を 誰にも触れさせまいと 飲み込むための膨大なわたしを創り始めたりとかして。
「」をつけて会話をしたとき すべての言葉は個々の身体に受胎するようだ 対話は共感を生み出して その共感は攻撃に成長する 攻撃は痛みを生み出す絶対的な存在である… …人は時に忘れてはいけない誰かの痛みを忘れてしまうから 親密さのための対話法の産声を!
わたしたちは、この惑星に人間として産み落とされた時からことばと共に生活してきました。 ことばを聞いて、噛み砕いて、発信する。それはとても素晴らしいことで、ことばによって自分の星だけでなく、自分以外の人が生きる星を探索しに行くことができるようになりました。ことばはわたしたちをまだ見ぬ星へ連れて行ってくれる存在であるような気がします。 しかし、ことばを道具として捉え始めたが故に、使い方を間違えてしまうことも多々ありますね。何気なく発したことばによって相手の生きる世界は潤
わたしの夏休みです! 水戸芸術館 沈みゆく身体と陽 時間を好きなように使える夏休みだからできることを一つやろうと思い、水戸芸術館現代美術ギャラリーに通うことにした。毎回、天気や時間をずらして行くようにしたり、じっくり鑑賞する日とそうでない日を作ったり、天井だけ見てまわる日にしたり…。とりあえず色々やってみた。少しの変化も芸術館ではかなり大きいものに感じた。 現代アートを鑑賞している時、私は身体中がモヤモヤでいっぱいになる。そのモヤモヤの形や色、手触りは様々でなかなか
夜の底を見たことがなかった。どんなに深い眠りについても。灯りを消した私の部屋の窓からは囁やかな月の光が入ってくるが、それだけでは全ての輪郭を捉えるのには足りないし、特に惹かれるような音が体内に入ってくるわけでもない。この世界の全ての境界が曖昧になり、身体が自分のものとは思えないほどずっしりと重くなる。私の瞼が「暗闇」という重さに耐えかねて、段々と降りてくる。 目を開けていた時、私のいた世界は確かに真っ暗だった。それなのに、瞼が降りると、段々と彼女の輪郭が浮かんでくる。笑
曇りに雨の日続きでなんだかからだも心も生活もしけっている日々を過ごしている。それに加えて、季節の変わり目はやたら饒舌になる傾向があるから、しゃべりすぎていないか心配だなぁ。天気の良い日は適度に外の乾いた風を取り込んで、心の換気ができるけれど、雨の日に窓を開けると水浸しになって心が落ち込んでしまうし、向かい風で傘をさすと、びしょびしょになってもう最悪気分落ち込み状態〜。 でも、季節は巡るものだからしょうがない!ぐらいの気持ちで夏の楽しみを考えよう。 まずは干した布団に寝
私の大好きなMONO NO AWREというバンドが水戸に来る!ということで先日、水戸ライトハウスにライブを見に行った。水戸という見慣れた景色、匂い、音の中に自分の好きなバンドの演奏があるという光景にとても特別感を感じた。馴染みのある場の空気を通して音が伝わって来る感じが一体感と親しみを生んでいるというところに感動していたような気がする…。(感動しすぎて言葉にできないの!) MONO NO AWREの曲『東京』に次のような歌詞がある。 「ふとした瞬間に僕たちはゆりかごへ帰
いよいよ受験生〜。受験・進学に向けて、自分で目標を設定し、計画を立てて実行する、日々の積み重ねをなによりも大切にすること、好きなことに磨きをかけていけるような一年にしたいと思っている。 しかし、私は継続することが苦手である。どんなに自分の好きなことであっても、自信がなくなったり、周りの評価が気になったりするとなかなか手がつかなくなる。私の悩みの一つだ。 「かもめのジョナサン」は、漁船の周囲で餌を啄ばむカモメの群れ…そこから遥か遠くの上空で自身の飛行を求めて演習を重ねる
今回で四回目。勢いだけで書き進めることができなくなってきた。行き詰まることが増えた、辛い。何が辛いのか、はっきりと説明することができない。えたいの知れない不吉な塊がある。 とりあえず、テーマを決めなければ、と本屋に向かった。私がいつも行く本屋は品揃えが豊富な上に陳列が分かりやすくとても便利だ。行けば大抵の本の場所がわかるくらいになった。本屋は私にとって夢の国。この世の中で唯一浮遊できる場所であり、時が止まる場所であり、自分を見つめる場所である。図書館ではダメで、私はまだ
やさしさというものは難しい。相手を慰めたり、心の傷を癒したりするような言動をしているつもりが、相手にとっては鬱陶しかったり、突き放されたように感じたり。もちろん私もそう感じることは多くある。 私も先日、同様の失態を犯したばかりである。ある悩みを抱えた相手に対し、「実は私もね〜」と軽々しい言葉をかけてしまった。今思えばあれは心配でもやさしさでもなく、同情をしただけであった。この接し方は本当に良くなかったと思う。 『目の見えない人は世界をどう見ているのか』は視覚障害者がど
読書は面白い。自分の見たことない景色をこんなにも容易に見せてくれる手段は他にはない。言葉の響きや文体、私の心は常に高揚している。 それと同時に、「世の中にはこんなにも面白いものを書く人がいるのに、どうして私はできないのだろう」と落ち込むこともよくある。理想としている人やなりたい自分と今現在の自分はかけ離れすぎている。いつ生まれてきたのか分からない「自意識」というものが常に私を苦しめてくるのだった。 いっそ、人間なんかやめて、空を自由に飛ぶ鳥や近所を自由に歩き回る猫にな