氣づきの国語辞典「ワレ」編
吾→ 「棒を交差させて組み立てた器具」の象形
と「口」の象形(「神のお告げ」の意味)から、
神のお告げを穢れから守るための器具を意味し、
そこから、「防ぐ」を意味する「吾」という漢字
ができた。その後借りて「われ」の意味も表すよ
うになった。
悟って漢字は心を守る、防ぐって意味があるの
かも?いい漢字やな〜!
我→ 「刃先がぎざぎざした矛」の象形から、
「ぎざぎざして鋭い」の意味を表したが、借りて
「われ」、「私」、「自分」を意味する「我」と
いう漢字ができた。こちらも借りて自分の意味を
表すようになっている。
日本語は一人称を省略しても文章が書ける希少性
の高い言語だが、自分とは何かについてイメージ
しにくい点があるかもしれないと漢字の成り立ち
から氣づいた。
神社に御神体としてお祀りされているものに鏡が
ある。昔、何故鏡があるのだろうと不思議に思っ
ていたが、ある話を聞いて腹落ちした。
鏡はカタカナでカガミと書く。
神の間に我がある。
カ我ミ。
自分も神の一部なんだ。
天御中主神は宇宙の根源であるならばものすごく
大きく広い存在なのかもしれないし、その一部で
あるとしても何ら不思議ではない。
そして神の誕生によって形作られてきたこの日本
という国に生を受けたということは自分の身体を
形成している肉体や魂も神の一部である方がかえ
って自然なことなのかもしれない。
自分は神なのだからふんぞり返るとか傲慢になっ
てもよいというニュアンスではなく、自分も神に
選ばれた存在で大事なワンピースだということ、
使命を与えられた存在だということ。
そう思うと自分のことが愛おしくなるし大切だな
と改めて感じられる。
天照大御神が岩屋戸籠りをした。
これは籠って祈りや祝詞を奏上することで、
祓い清めようとしたのだと思う。
岩屋戸から外の世界に出る際に鏡を見せられるの
だが、そこではっと我に返る。
神は外にあるのではなく、我の中に存在すると。
お風呂のお湯を自分側に混ぜても外側に混ぜても
自分側に巡ってくるし、周りの人にも巡ってく
る。自分に祈ることは人のために祈ることだし、
人のために祈ることは自分のために祈ることでも
ある。
左が陽で右が陰と考えるのと左が陰で右が陽と考
える二つの説があると知ったとき、自分から見て
と相手から見たときの場合が混合したのだろうと
書いてあった。つまり左は右で右は左なんだ。
どちらも陽でどちらも陰なんだ。
ネガティヴもポジティブでポジティブもネガティ
ヴなんだ。
良い悪いも自分の見方考え方次第で「〜ねばならな
い」を解放し、愛す赦すのテーマをこれからも楽
しんでいきたい。(マヤ暦だと僕の今世のテーマ
は愛す赦すでちなみに前世も同じテーマだった
みたいです。そのために愛せない、赦せないこと
がたくさん起こるようです。)
僕らしいテーマだと思いながら最近はうまく手放
しながらたまに思い出したりしています。
いよいよ明日のワン編で一区切り。
明後日からはおとだま編に入ろうと思います!
お楽しみに!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?