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「赤い鳥」の原稿添削をめぐって

ノートルダム清心女子大学教授の山根知子氏の
鈴木三重吉と坪田譲治
      〜「赤い鳥」の原稿添削をめぐって〜

と題した講演を聞いて意外な事実を知った。
坪田譲治は、昭和2年から11年(三重吉逝去によって終了)まで、鈴木三重吉の主宰する雑誌「赤い鳥」に参加したが、そこに掲載されている譲治の童話は全て、三重吉が添削指導していたらしい。中には、三重吉の手で、全て書き直された作品もあると言う。とはいえ、作者は坪田譲治のままで原稿料も支払われた。添削は、坪田のみならず、「赤い鳥」に寄稿した作品のすべてに行われたらしい。
ある時、三重吉から、「毎号よく直して差し上げてるんだが、どうですかね、勉強しておいでですかね」と言われたので、譲治が「はい、毎号、ごやっかいになりまして。しかし、先生に直していただくと、文章はとても立派になるのですが、私の狙いどころはもっと素朴なところを思っておりまして」と答えたところ、三重吉の逆鱗に触れたと言う。
三重吉は穣治にとって素晴らしい師匠であった事は言うまでもないが、本当の意味での坪田譲治の童話が完成したのは、三重吉の死後だろう。
私は俳句を詠んでいた時期があるが、俳句の世界では初心者が添削指導を受けるのは当たり前である。俳句には季題や切れ字など伝統的なルールがあるからだ。児童文学の世界で「添削」とは、違和感を覚えたが、当時にあって「児童文学」は新しいジャンルで、そのパイオニアが鈴木三重吉。後に続く作家を指導する事は、実は必要だったのかもしれない。

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