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母離れ

 パーソナリティ障害の本を読んでいて、なるほど、と思い当たる箇所に出会った。

 親に愛され、適切な保護と養育を受けて育った者は、年とともに親を卒業し、精神的にも、社会的にも自立へと向かう。(中略)親は、幼いころ大切にした縫いぐるみのように、子供にとって、懐かしい古ぼけた、支配力を失ったものとなる。それが、自然な成長の結果なのである。
 だが、何かの事情で、適切な愛情や養育、保護が与えられないと、子供はうまく親を卒業することができない。
 (岡田尊司『パーソナリティ障害 いかに接し、どう克服するか 』より)

 私が子供の時、ある問題から、我が家は夫婦喧嘩が耐えなかった。母の家出はしょっちゅうで(私は常に連れていかれた)、幼い私の手を引いて、宇品の海に飛び込もうとしたことさえある。少しでも離れたら、母がいなくなってしまいそうで、私は外出が苦痛な子供になった。幼稚園はほとんど行っていない。幼稚園バスのバス停を自宅前に設置され、ほぼ強制的に登園させられても、幼稚園を脱走して家に帰った。小学校にあがっても、仮病を使って学校を休んだ。体温計を指で擦って、摩擦熱で38度まであげるのが常習だった。父は医師であったけれども、娘を溺愛するあまり、毎回、やすやすとだまされてくれた。とにかく、一刻でも、母と離れるのが怖かったのだ。
 私が高校2年生の時、「ある問題」は、解決した。ちょうどその頃だった。父と母と三人で食卓を囲んでいて、なぜ自分はここにいるのだろう?という不思議な感覚に囚われた。親であるというだけで、私の目には美しく見えていた母が、還暦前のシミとシワだらけの初老の女性に変わった。問題が解決したことで、母と一体化しようとする不自然な義務感から、私は解放されたのだと思う。そのとき、「目から鱗が落ち」て、ようやく母を卒業することができたのだろう。どういうわけか私の中の父親像には変化がなかった。
 ところで、動物にあってはどうなのだろう。私は猫を飼い続けているが、どの猫もいつまでたっても子猫の時と変わらず、甘えてくっついて離れない。猫にとって私はまだ「ぬいぐるみ」になっていないらしい。一人息子にとってはどうなのだろう。興味津々だけれど、訊かないことにする。


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