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西原真奈美詩集『迎え火』

 西原真奈美さんの詩集『迎え火』を拝読した。
『迎え火』は、私の第四詩集『水栽培の猫』と同じ時、思潮社で出版、編集者も同じ、藤井一乃さんだった。西原さんも私も吉原幸子ファンで、同年代と、共通点が多いが、詩集の装丁は『迎え火』は燃え盛る炎の色、『水栽培の猫』は透き通った水の色で、対照的である。
 二冊の詩集のもう一つの共通点は、章立てがないこと。一篇、一篇、詩を連ねているのと同時に、通して読んだ時、物語のような構成になっている。演劇好きの吉原さんの詩集(特に初期のもの)も、読み終わった時、詩集でありながら私小説を読まされたような感じを受けた。西原さんも私も、知らず知らずのうちに、吉原さんの影響を受けている。
 『水栽培の猫』の栞文に、野木京子さんが「祈りの鈴の音とともに循環をくりかえし」と書いてくださった。詩集『迎え火』も父上の死を書いた巻頭詩『父』の「サンサシオン」と、母上の死を書いた巻末詩『夏の庭』の「オラシオン」が共鳴し合い、生と死とが走馬灯に閉じ込められた影絵のようにまわりつづけるイメージだった。
 西原さんならではと思ったのは「光り」という表記。名詞の場合、一般的には「光」と書く。それを敢えて動詞の連用形みたいな「光り」とすることで、金属やダイヤモンドのような静なる光沢ではなく、花火や火の粉や陽光のような動的な光を感じた。「光り」は『迎え火』のキーワードである。
 本詩集にあっては、やや異色の平仮名表記の詩の舌足らずな感じが、私は好きだ。

たった ままで かれた
ふゆの くさの はらを
ふたり わけて あるく
ひなた おなか せなか
       (『ひなた おなか せなか』第二連)

 この詩は、「おなか」と「せなか」がくっついている状態、つまり作者は、お子さんをおんぶしているのかなと、読んだ。「たった ままで かれた」のは、作者自身だ。「おまえと一緒に神隠しに遭いたいと、その裂け目に飲みこまれ(『トルソのように』より)」、「りんかくを失うとき/臨界をこえてしまった(『切っ先』より)」、「どこにも行けないのに/(わたし)という表札に/なりたかった(『表札』より)」の風景にも重なる。

真上からの火の粉にも火傷しないほど
火だるまだった わたしの
少しも望んでいないことを
受け入れるためだけの 夏があった
            (『凪 遠花火』より)

 けれど、そんな夏があったからこそ、詩集『迎え火』は誕生したのである。


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