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【ソシガヤ格闘記・第16朝】今日から新年度、力を入れ直していこう。

こんにちは。初めまして。
慶應義塾大学メディアデザイン研究科修士2年、
休学中の吉田凌太(よしだりょうた)です。

2024年4月1日。ついに新年度が来た。
もし自分があのまま大学院に所属していたら、今卒業して社会人になっていたかもしれない。同期たちは無事大学院を飛び立ち、次の道へ羽ばたいていく。華やかな門出を祝ってるし、ここからの活躍が楽しみだ。

ここ2週間は、あまり目立った進捗はなかった。
とはいうものの、僕にとってはすごい貴重な時間だった。なくてはいけない時間だった。色々な人とお会いし、色々な方を紹介してもらい、挨拶し、祖師谷をまた深く知れた。知らないことがまだたくさんあることに気づけたし、それ以上に可能性にも巡り会えた。信頼構築を地道に続けていくという意味で、すごく有意義だったし、流れに沿って行動したことで奇跡的な出会いもあった。

人間と人間が一緒に手を取り合っていく、街づくり。今の僕に必要なのは、権力でも立場でも権威でもない。とかく民主主義である日本において。まずは人間として街の人に知ってもらい、地道に「助け・助けられ」の関係を作っていくことこそ、大切だと改めて感じた。

その反面、自戒が必要な部分もある。

まだまだ量が足りない。圧倒的に。甘えちゃダメだ。
流れがいいからってその流れに案じてたら、何も変わらない。
そして、また質ばかり重視してしまった。今までと変わらないじゃないか。
もっと飛び出していかねば、街は変わっていかない。
人が興味持つのは時間がかかるが、人が離れていくのは一瞬である。
それを忘れてはいけない。

ここまでは充実していた反面、まだ足りないところがたくさんある。相手を知り、相手の望みに応じる。なんて立派なんだろう。でも知ることだけが目的になっては、ただの挨拶巡りだけで終わってしまう。僕が目指していることはそこではない。だから、もう一回兜の緒を引き締め直すために、文章で整理していきたい。

プロジェクトを始めた問題意識の一つとして、日常の街から生まれるデータと、実際に取られる人間行動が乖離していることへの違和感がある。そもそもデータというものが過小評価されているきらいを感じる。ボランティアや助けあいは人間味があって素晴らしいが、事実データなしに生活できないのもまた事実である。データという言葉を使うのは抽象的だし、広範すぎて意味がないから使いたくもない。ただデータという言葉の偉大さを再認識し、街中に落としていく必要が多大にある。そしてデータだけを崇めるだけでなく、それを生活の行動レベルに落として足掛けとして使える段階まで加工する。データ民主主義やテクノクラシーの論調ならそれすら必要ないと言及するかも知れないが、僕はもっと不条理が許される世界でいきたい。

話は戻るが、商店街や町単位で開催される車座集会でも、参加者による意見はぽこぽこ出てくる。でもそれ以上の深掘りがない。参加者の口から出てくる課題や問題は、本質的な課題や問題ではない。口から出てくる言葉や姿勢、それらを観察し、裏側を予測することで本質的な課題が出てくるはずである。今のままでは、実際に何かやろうとしても、すごく抽象的な解像度のアウトプットしかできないし、それが生命を帯びない形で萎れてしまう。

もちろん課題をベースに行動するだけが、正解ではないのはわかってる。でも今はそこを追求しないとこれ以上がない。だからもっと入り込んで、調査と検証を重ねていくプロジェクトを発足することにした。いくつかの動きがどこかの段階で、絡み合って大きな大木になればいいな。

今日の文章は自分の中に二重人格が存在するかのようだった。
パッと読み返してそう感じる。意味不明だし、暗い文調になってしまった。言いたいことはただ一つ。僕たちはまだまだやれる。まだ伸び代がたくさんある。

今の時点でも新たな兆しを作る嬉しいニュースは出てきている。でもこれらは1ヶ月前の僕たちが作り出した事実にすぎない。今の事実とは関係ない。
事実に甘んじることなく、もっと先へ。2024年度も頑張ろう。


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