Parade of H新刊『運命の遊戯盤の上で、僕らは』 サンプル(『ハロウィンと夜の物語』章より抜粋)

※章の途中を抜粋しているため、一部用語などが説明なく使われている場合があります。

ジャガイモ飢饉を逃れて新天地アメリカへ

ジャガイモの茎が腐る病気「胴枯れ病」の最初の報告は1843 年、ヨーロッパではなく北米、ニューヨークでのことだった。流行は次第に北へ拡大し、1845 年春にはカナダ東部のニューファンドランド島に到達、初夏にはヨーロッパに上陸し、ベルギー、オランダなどで大きな被害をもたらした。かつて王族が普及に努めたプロイセンやフランスも例外ではなかった。

ロンドン大学の植物学者ジョン・リンドリーは発生の最初期に胴枯れ病を把握していたとされるイングランド人の一人で、イギリス南部の港町ポーツマスの対岸にあるワイト島のジャガイモ畑で胴枯れ病が発生したとの報告を受けていた。やがてロンドンの街中で市場に並ぶジャガイモにも異常が見つかりはじめ、園芸新聞Gardeners' Chronicle の編集者の一人でもあったリンドリーは1845 年8 月23 日の紙面で大規模な病気の流行を警告した。しかしアイルランドでその情報を手にできたのは街に住むプロテスタント地主ばかりで、街との交流が薄くそもそも字が読めない農民たちには警告は届かなかった。

アイルランドへの胴枯れ病の上陸はその後まもなくの9 月のことだったようだ。同年のアイルランドはそもそも異常気象で、夏になっても気温が十分上がらない日が続いたり、8 月にみぞれが降ったりしてジャガイモは不作だったという。そこに病気が襲い掛かり、前月に収穫したばかりで地中に保存していたジャガイモの多くが腐って使い物にならなくなった。病気の進行は非常に早く、さっきまで健康だったジャガイモがものの数時間で『ドロドロの毒*』になってしまった。

*現代では胴枯れ病の原因は$${\textit{Phytophthora infestans}}$$(エキビョウキン)と呼ばれる菌類の一種であり、もともとは中南米に土着の微生物だったものが19 世紀に全世界に拡がったこと、アイルランドで作られていたランパーはこの病気に非常に弱く、ランパーへの依存度が高かったことが被害をより一層深刻にしたことが判っている。

アイルランドにとって不運だったのは、ナポレオン戦争終結以来イギリス本土の食糧需要が下がり、かつては裕福だった農家さえ自分たちが食い繋ぐので精一杯になってきていたことだった。更にこの年の冬には寒波が襲来しチフスや赤痢などが流行った。

そして翌1846 年には胴枯れ病の第二波が襲う。イギリスはアイルランドの困窮を救うためとして穀物法を撤廃し、アメリカからのインディアンミール(トウモロコシ粉)の輸入を開始した。しかしこのインディアンミールは市場価格の維持などを理由に無料配給ではなく低価格での販売とされ、現金を持たない耕作人の救済にはほとんど役立たなかったらしい。イギリス人の地主らはそれまでと変わらず本国へ小麦やオート麦の輸出を続けて、アイルランドで生産されたジャガイモ以外の作物がアイルランド人の口に入らない状況も変わらないままだった。困窮した耕作人は衣類などを質に入れてどうにか食糧を購入しようとしたが、食糧倉庫を強奪したり小麦やオート麦の輸送車を襲撃したりする者も出て治安が悪化した。

穀物法の撤廃はアイルランドにとって寧ろマイナスに働いた。イギリスに対する穀物の独占的輸出ができなくなったため、地主の一部は穀物を諦めて牧畜に切り替えた。これによって小作人は土地そのものと、コネイカから得ていた耕作料収入を失った。

インディアンミールに次ぐもう一つの窮民救済として、アイルランド西部の未開拓地での開拓や道路工事などの公共事業が行われた。困窮者の数に対して働き口は十分とはいえなかったが、1846 年の夏にはこの事業でおよそ十四万人が仕事を得た。多くの耕作人が成果の薄くなった農耕よりも公共事業の仕事を望んだとする記録も残っている。だがこれによる耕作人の離農は、穀物法の撤廃を経ても農地を保有できていた小規模地主や小作人から、労働力や耕作料収入を奪う結果に繋がった。基盤を失った彼らは飢饉時代にアメリカなどへ逃れた最初のグループとなった。

1846 年末~ 47 年初頭には再び寒波が襲い、前の冬に続いて赤痢が流行ったほか、飢餓と不衛生により飢餓熱やコレラ、はしかなど様々な伝染病が蔓延した。病死者、餓死者が増えたため生産高は一層下落した。

シェイマスの移民について改めて確認すると、彼は最初にジャガイモが腐った時にはアイルランドにいた。移民後は米墨戦争に参加しているが、1846 年4 月(宣戦布告は開戦後の5 月)~ 1848 年2 月の戦闘期間のうち、確実に従軍していたと判るのは1847 年2 月のブエナ・ビスタの戦いのみである。つまりシェイマスが棺桶船に乗っていたのは、長く見積もって45 年のジャガイモ収穫期が終わる頃から46 年秋頃までの何処かと考えていいだろう。

本章の冒頭で紹介した通りアイルランドの人々は産業革命以来、主にイギリスへ出稼ぎの為に移民(正確に言えば同国内での移動であるから「外国」ではないのだが)するようになっていた。1815 年にはアイルランド島とグレートブリテン島を結ぶ安価な蒸気船が導入されて往来が容易になった。1830 年代になるとイギリスの意向で英語教育が拡がった。この頃の新聞にはイギリスでの仕事の求人や船の情報、移民計画の記事などが掲載されており、農村の識字率こそ低迷していたものの、都市の人々はかなり早くから移民についての知識を持っていたらしい。イギリス側で工業従事者が不足した際、アイルランド人に出稼ぎをあっせんする業者もいたという。

一方アメリカ行きの移民も17 世紀には既にみられた。ヨーロッパの最西端に位置する国の一つであるアイルランドでは、海の向こうには常若の楽園「ティル・ナ・ノグ」があると古くから信じられており、西の大陸アメリカに対する憧れに繋がっていた。17 世紀にはイギリスのアメリカ植民に労働者として同行した者があり、18 世紀にも飢饉やイギリス支配下での重税を逃れて渡米するグループがあった。

ジャガイモ飢饉下での移民の多くはしかし、求人に応じた結果でも自身の憧れを追い求めた結果でもない。資金も技術も英語力もない人々が土地を捨て或いは喪って、シェイマス自身歌っている通り最後の博打に出たというのが現実だった。

当時の渡航ルートはまず家畜輸送船でイギリスのリヴァプールに渡り、アメリカ行きの船に乗り換えるというものが主だったようだ。リヴァプールではスリやサギの被害が多発、女性の場合は騙されて売春宿に引き込まれる場合もあった。アメリカへ渡れないままリヴァプールのスラムに住み着き、一生を終える者も少なくなかったという。

だがシェイマスが乗り込んだと思われるのはこれではなく「棺桶船」「Famine ship」と呼ばれたアイルランドからアメリカへの直行便の方だろう。イギリス経由便と比べれは数は少なかったようではあるが、例えば1846 年から1851 年に掛けてアイルランド南東部の港ニューロスからアメリカの東海岸まで「ダンブロディ号」という船が片道約四~六週間で往復した記録が残っている。

直行便に使われた船は老朽化した小型の襤褸船で、船員の訓練も行き届いてはいなかった。定員はおよそ180 前後だったが、飢饉の被害がピークを迎えた1847 年には313 人を乗せた記録がある。食事や居室の環境は非常に悪く、特に三等船室は船室と名はついていてもほぼ船倉で、甲板に出られる機会もほとんどなかったという。乗船の時点からの飢餓状態や劣悪な衛生状態のため、船内で伝染病が蔓延することも多かった。こうした理由で、船内またはアメリカ到着直後の移民の死亡率は高い時で四割にもなった。船上での死者は海中に投棄され、文字通り"gone far away" してしまった。

こうしてやっとの思いで辿り着いたアメリカは、アイルランド人にとって楽園「ティル・ナ・ノグ」たり得たのだろうか? ほとんどの場合答えはNO だった。イギリス人からの差別は続き、WASP 絶対優位の社会で「大家族、大酒のみ、だらしがない、無知、けんかっ早い、頑固」というイメージの付き纏うアイルランド人カトリック教徒は歓迎されなかった。

同時期までのアメリカの歴史を振り返っておくと、対英独立戦争が勃発したのが1775 年、翌1776 年の7 月4 日に独立宣言が採択される。しかしこの時点で完全な独立、自由を勝ち取れたわけではなく、戦争はその後1783 年のパリ条約締結まで続く。それ以降数年を掛けて大統領制や合衆国制、合衆国憲法など現在のアメリカに近い政治体制が整えられた。建国時のアメリカは大陸東海岸の13 の植民地(のちの十三州)に限られていたが、それら植民地の幾つかはパリ条約以前から既に西方への領土拡大を開始しており、それらの土地の領有権は建国と共にアメリカに移された。

本格的な西方への領土拡大が始まったのは19 世紀の初め、1812 年~1815 年の米英戦争の前後からである。パリ条約から僅か30 年足らずで勃発した米英戦争のきっかけの一つは、インディアンの所有地をめぐる米英間の対立だった。チェロキー族など一部の部族は18 世紀末までにアメリカと休戦し、「白人文明を受け入れた部族」としてアメリカ軍に加わっていた。しかしその他の部族はアメリカの西方進出を抑制する目的でイギリスと結んでいた。このため米英戦争はインディアンによる代理戦争の様相となる。1830 年代には第7 代大統領アンドリュー・ジャクソンが「インディアン移住法」に署名、アメリカ人入植地からインディアンを排除して現在のアーカンソー州やオクラホマ州などへの移住を強制した。

「Manifest Destiny」をスローガンに西へ拡大したアメリカは、やがてインディアンのみならずメキシコの領土をも侵犯するようになっていく。1836年、アメリカは当時メキシコ領だったテキサスに入植しメキシコからの独立を宣言させた上で併合してしまう。メキシコは当然抗議したものの、アメリカはメキシコが領土を侵犯したと口実をつけてメキシコ本土へ侵攻した。こうして始まったのが米墨戦争で、アメリカは陸路に加え、ケープ岬を迂回して東海岸から西海岸へ海軍を送りメキシコの封じ込めを図った。

パンか信仰か―米墨両軍に分かれたアイルランド兵の選択

こうして、アメリカに到着して未だ間もなかっただろうシェイマスに選択の刻が訪れる。当時のアイルランド人移民は東海岸を中心に開拓や開墾、鉱山での採鉱などの肉体労働に従事していた。先述の通りアイルランドを抜け出してもプロテスタント系、イギリス系住民によるアイルランド人カトリックへの差別はやまず、1830 年~ 1840 年代にかけて、ボストンやフィラデルフィアなどの複数の都市でカトリック教会に対する焼き討ち、打ちこわしなどの記録が残っている。

メキシコ軍と対峙した米軍の兵士たちの中にもアイルランドを含めた移民出身者がおよそ四割もいたのだが、将官の多くがプロテスタントだったため、カトリックの兵士に対してカトリック式のミサへの参加を禁じ、プロテスタント式のものへの参加を強要するなどの差別があった。こうしたことからカトリックの兵士たちの間で次第にアメリカへの反発が強まっていき、メキシコ軍を指揮したサンタ・アナ将軍が「同じカトリックの同胞として」メキシコ側へつくよう呼び掛けたことも手伝って、最も多い時で二百名ほどの兵士がアメリカの軍籍を捨て、メキシコ軍の移民部隊「聖パトリック大隊」を組織するに至った。アイルランドの聖人聖パトリックの名を冠してはいるものの最も重視されたのはカトリックかどうかだったといい、ドイツ人など複数の国籍の人々が所属していたという。しかしシェイマスはこれに加わってはいなかった。

シェイマスが加わったのはメキシコ軍ではなくアメリカ軍。米墨戦争以前にはインディアンとの戦いに長く従軍、インディアンの虐殺や居住地からの追い出しによる「戦果」でも知られるザカリー・テイラーの麾下にいた。アメリカに到着したシェイマスの背景にインディアンとの抗争を示唆する描写があることから、彼は到着後比較的早い段階で米軍に職を得てそのまま米墨戦争までテイラーに従っていたのかもしれない。アイルランド人として、カトリック教徒として聖パトリック大隊に加わる選択もあり得ただろうが、テイラーは麾下の移民兵士に対して戦後の恩給を約束していたというから、『バイブルよりもパン』と歌っている通り人種や信仰
より報酬を選んだということなのだろう。

だがこの選択は、戦後のパン以上の意味を持つこととなる。テイラーが指揮しシェイマスもマスケットを取った1847 年2 月のブエナビスタの戦いは自軍の約四倍のメキシコ軍を相手に米軍の勝利に終わり、テイラーはこの戦いを最後に軍を退いて政界に転身、後に第12 代アメリカ大統領となるのだが、米軍はその後もメキシコ領深くに侵攻し、8 月のチェルブスコの戦いで聖パトリック大隊の多くを捕縛するに至った。捕縛された兵のほぼ全員がこの翌月に脱走兵として米軍に処刑されており、大隊に参加していればシェイマスも刑死を免れなかったことだろう。

米墨戦争で勝利したアメリカは先に占領済みのテキサスをそのまま保持し、カリフォルニア、ユタ、コロラド、ニューメキシコ、アリゾナなど7州の全部または一部を合計1,500 万ドルで獲得した。この割譲を定めたグアダルーペ・イダルゴ条約は1848 年の2 月初旬に署名されたが、その僅か一週間前の1 月24 日にカリフォルニア州サクラメント近郊のサッター砦で川から砂金が発見された。発見者と地主サッターが共に砂金の存在を秘匿しようと試みたため、アメリカ・メキシコ両国とも恐らく金の存在を知らないままに終戦したのだろうが、その後3 月には新聞に金の存在が掲載され、同年の夏から秋には国内外の採掘者が訪れるようになっていた。

ゴールドラッシュ以前、ネイティブアメリカンとメキシコ系の人々を除くカリフォルニアの所謂「アメリカ人」の人口はおよそ七百〜八百人程度に過ぎなかったが、1848 年末には約二万人、1849 年末には十万人を越え、そのほとんどが男性だった。一攫千金を夢見た人々の急拵えの街の治安は良いとは言い難く、暴力、略奪、ギャンブル、売春、なんでもありの無法地帯になっていた。酒浸りの男が一人死んだところで、恐らく何の注目も集めなかったに違いない。

カリフォルニアの地表の砂金は1850 年には早くも減り始め、採掘は水力などを使ったより組織的なものへと変化していった。しかし人口は増え続け、1850 年代の終わりには州全体でおよそ三十八万人に達した。

(つづく)

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