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曹植の詩を解説/何がどうすごかったのか?


曹植って知ってますか? 日本ではそこまでメジャーな人物じゃないけど、三国志好きな人なら「ああ、曹操の息子ね」ってくらいの認識だと思います。

で、もう少し知ってる人なら「ああ、詩が凄いんでしょ」って感じかもしれませんね

蒼天航路とかでもなんか凄かったですね。


でも「詩が凄い」って何でしょう? どう凄かったのでしょう? 同時代の他の詩人と、どう違ったのでしょう。

っていうとあんまり答えられる人いないと思います。なのでご紹介したいです。

実は私は、大学時代は中国古典文学を専攻していまして、曹植についての論文を書いたこともあります。それを某掲示板に投稿したこともあります。

掃除してたらその論文が出てきたので、せっかくなので人に伝えたくなりました。要するに布教です。私は多分、日本トップクラスの曹植スキーなのです。

曹植の文学が、どう凄かったのか? 論文ベースなのですが、学生の頃よりは文章書くの上手くなったと思うので、その辺を出来るだけわかりやすく紹介したいと思います。現在、小説などの文章を書いてる人にも役立つ内容かもしれないので、暇な人読んでね。

後世の人による曹植の評価。


曹植、字子建。彼は中国詩史において非常に重要な位置にある詩人です!……と、下記の文献などに記されています。

①子建、中宣以気質為遂體、並標能壇美、獨映當時…
出典:宋書・謝霊運伝論 


②其源出於国風。骨気奇高、詞采華茂、情兼雅怨、
體被文質、(中略)嗟乎陳思之干文章也、譬人倫之周孔…
出典:詩品・陳思王

※漢文は読まなくてもいいです。


①の評は、後世の中国人が、曹植作品を「気質」「美」「骨気」「華茂」と表現し、内容の質実さ華麗さを賛辞しているものです。

②の評では曹植を詩人の最高峰である「上品」におき、
さらに「人倫」における「周孔」であるとまで言い切ってます。
要するに文学界における曹植ちゃんは、倫理の世界でいう孔子クラスだぜ! ってことです。


中国における孔子の偉さを考えるとまあまあヤバいですね。

こうした評は曹植が生きていた時代にすでに高い評価を得ていたことは勿論として、後世の文人たちが純粋にその作品に感動すればこそ得られたものでしょう。


曹植の生きた時代は文学が盛んでした。


だから曹植だけじゃなくて他にもいい文人たちがいっぱいいたわけです。にもかかわらずその代表として語られるのはいつも曹植です。


それは何故か? これは色々な人が色んな意見言ってます。

例えば明の胡王麟さんは『詩藪』のなかで
「建安中、三、四、五、六、七言、楽府、文、賦
ともに巧みなるは独り陳思(曹植)のみ」

と言ってます。


ようするに色んな形式の文学全部上手いのは曹植一人だけだよ、って意味です。

あと、曹植が同時代の文人たちの間では年少だったから他の詩人のあらゆる要素を取り入れることが出来たんだよ、っていう考え方もありますし、境遇的な激変した人生だったから作品の表現も変貌して、その結果作品が複雑多彩なものになったっていうのもあります。


この辺は、どれも曹植の作品の形式・表現の多彩さに注目した考えです。まあ、そうなんでしょう。でもですよ。

多彩であるってことは、他の複数の人が持っている要素を多く持ってるってことですよね。だから、独自性ってことでいうと言うと微妙じゃね? って感じしませんか?

では、曹植の詩固有の要素について触れた評も見てみましょう。

其の源は国風より出ず

訳:曹植ちゃんの作風は詩経由来だよ!
出典:詩品

詩経というのは、中国最古の詩編でして、日本で言えば万葉集みたいなものです。

要するに、曹植の詩は、大昔から伝わる伝統に基づいてるぜ! ってことですね。

また、こんな評もあります。

漢楽府の變は子建より始まる。

訳:漢の国の詩の変革は、曹植が始めたんだよ
出典:藝苑巵言

さて、この二つの評を見ると、「矛盾してねぇか?」って思いませんか。私は思いました。

一方で中国最古の詩の源を受け継いでるって言ってるのに、一方では詩の変革の創始者であるって。なにそれ。意味わかんね。


伝統と革新って、矛盾してね?

実はこの矛盾に、曹植の詩の凄さがあります。本記事を最後まで読んでいただければ多分納得できるかと思いますので、もう少しお付き合いください。

ロックンロールな時代背景

作品を読み解くうえで、曹植が生きた時代についてふれます。

時は建安。いわゆる三国時代を指しますね。三国志は詳しい人も多いと思いますので、簡単に説明しますが……

チンチン切った人たちがいろいろ悪さしたことに端を発し、色んな人が戦争ばっかりしてた時代でした。

この時代において漢は滅び、魏、呉、蜀による三国鼎立が形成されます。
まあ要するに荒れていたわけです。

しかし、こんな時代だけど発展してたものがありました。それが文学です。この時代、文学活動がかなり流行りまして、後の世では中国文学史上にとって転換点であったと言われております。
この時代の文学を指して建安文学と言います

。 
この建安文学で有名なのは曹操(パパ)、曹丕(おにいちゃん)、曹植の三曹。そして建安七子と言われる七人の文人です。

ここに曹操が含まれているのがポイントでして、曹操は当時の群雄のなかでも際立って有力な人でした。

曹操はもうめちゃくちゃ戦争強くて政治も優秀だったうえに、文才もあったそうです。すごいですね。

で、そんな曹操は文学が好きなので文学サロンを作り、そこにたくさんの文人が集まります。

ここで思い出してほしいのですが、さっき建安時代が中国文学の転換期だったったと述べました。
これは何故かというと建安文学以前と以降で中国文学の主流となるスタイルが変ったからです。

クラシックが廃れて、ロックが流行りだしたみたいなものなのですが、文学の主流が「賦」から「詩」に変りました。


「賦」ってのは宮殿とか皇帝とかの様子とか政治とかを、長くて難しい文体で書いたものです。要するに叙述的ってことです。

一方、「詩」。これはその辺の一般人とかを含む色んな人の心情とか、ちょっとした出来事への思いとかを歌ったものでして、高校とかの漢文で習う漢詩は大体コレです。

建安時代までは一般人たちのあいだで自然発生的に生まれる歌として存在してて、宴会で適当に歌われたりしていたものが「詩」でした。

作者未詳の、名も無き人々の歌という認識です。
極端に言えば「みっちゃんみちみちウンコまって」とかあの辺の感じです。


だから、「詩」は文人たちの間では「あんなもん、文学じゃねー」って感じでした。純文学しか認めない人がライトノベルを小説じゃないというような感じかもしれませんね。

例えばさきほど出てきた。「詩経」。あれ中国最古の詩集なのですが、
三百五編の殆どが作者未詳の民謡です。いかに、詩がどうでもいいものと思われてたかわかります。


こんな「詩」の状況を変えたのが曹操を初めとする建安の文人たちでした。

彼らは自ら「詩」を作り、、そしてその作者として名前を記しました。
するとどうなるでしょう?

曹操にあつめられた文人ですから、超社会的ステータス高いですし、曹操自身となるとさらに高いです。しかも曹操は天才で有名です。

あれ? あいつらが作ってるくらいだから「詩」って結構すごいんじゃね? ってなりました。

これにより、それまでの主流であった「賦」に成り代わって、より短く軽快な「詩」が中国文学のメインストリームへと変わっていきます。
このブームはずっと続き、陶淵明や李白、杜甫といった偉大な詩人へと受け継がれていきます。

と、まぁこんなの感じの時代です。
魏の初代皇帝の曹丕さんは『典論』って作品で「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」って言ってます。文学は国家レベルの大事で、けして朽ちないよ!って意味です。

後の時代では建安文学は「気骨」「風骨」「慷慨」とかいう言葉で表現されます。タフでクールでロックだぜ!みたいな意味です。

なんとなく、反戦やヒッピームーブメントでロックが流行った70年代を連想させますね。

要するに何が言いたかっていうと、
曹植が生きてた時代は荒れてて、でも文学は熱い時代だったよ!! ってことです。

曹植の生涯。皇帝候補からニートへ。

次に曹植の生涯について。曹植ちゃんは西暦一九二年(初平三年)、曹操の子として生まれます。

曹植は大体40年くらいしか生きないんですけど、人生を大体二つの時期にわけることが出来ます。


まずその一つ目の時期「マジ俺最強、天才でボンボン」時代。

誕生した192年(初平三年)から曹丕お兄ちゃんとの後継者争いに敗れる217年まで、二十六歳までの時期です。

曹植が生まれた後、父ちゃんの曹操は着々と勢力を拡大して、ものすげー偉くなります。

荒れ放題の世の中、だけど俺の父ちゃんはそのなかでも最強。この状況が人格形成に影響しないわけないと思います。

また、幼いときから曹植は文才を発揮していたようです。こんなエピソードがあります。

十歳くらいで『詩経』や『論語』、辞賦など数十万言を覚えてて、文章を書くのも上手だった曹植。子どもなのに上手すぎるから曹操父ちゃんが「誰かに代作してもらったん?」と尋ねました。

曹植は答えます。「俺が喋ったり書いたりすると、それがもう文学として成立するんですわ」

きっと、曹操も「やべぇ、俺の子、天才」って思ったことでしょう。

ま、中国の歴史書は盛りがちだから完全な事実じゃないかもしれませんが、それでも少なくとも曹植がその辺の子どもと違ってたのは間違いないと思います。

そんな曹植は才能に任せて文学無双状態へと突入します。若いけど一流の文人扱いです。

ちなみに曹操は、曹植が19歳のころ、西暦210年に唯才令と呼ばれる求賢令を施行しています。


これは「コネがなくても、人格的にやべぇヤツでも、身分底辺でも、才能さえあれば、採用するよ!」ってものです。

これは儒教こそ最強のそれまでの社会ではまずありえない話なのですが、さすがに曹操はリアリストです。

しかも、曹操は従来の偉い人が文学者を芸人なみに扱うのとは違って、ちゃんとした知識人として平等の資格を与えて接していました。

つまり、最有力の群雄であり実質上当時の最高権力者たる曹操は文学を社会的に価値のあるものとして認める姿勢を見せていたということです。曹操はそんなヤツだったから、天才文士である息子曹植にかなり期待していたようです。

生は簡易にして威儀を治めず。興馬服飾、華麗を尚ばず。常に進んで難問にあい、声に応じて答え、特に寵愛せらる

訳:曹植はあんま偉そうにしないで適当な感じで生きてる。ゴテゴテした装飾とか服とか嫌いで、しかも自分から難しいことに取り組んでてスゲェ。だから曹操も曹植ちゃんが好き
出典:三国志 陳思王植伝


曹植は文学的才能抜群で、奔放にして、華美を好まぬ趣味、礼式とか気にしねぇ的なルックスとかスタイルの人だったようで、これはヤング時代の曹操とかなり似ています。

そんな父からの評価もあり、曹植は超リア充です。でもこの状況は必然的にある問題を引き起こしました。

曹操の後継者問題です。

曹植は特殊な才能あったし、曹操に好かれていました。だから才能優先主義者の曹操さんは曹植を後継者に考えたこともあったそうです。でも、曹植は(存命の)長子ではありません。つまり、後継者には普通はなりえないということです。

でも丁儀・丁翼・楊修といったやつらが曹植の側近になって「曹植ちゃんを後継者に運動」が開始されました。なにしろ曹植は曹操の推しの子だったからです。
側近のこいつらも文学者で、その辺も曹植と仲が良かった理由のようです。


でもさ、この動きは曹丕お兄ちゃん的にはおもしろくありません。
曹丕は生きてる息子のなかでは長子だし、曹植とは異なるベクトルで結構優秀。どっちかっていうとそりゃ兄ちゃんが正統です。

ところで曹丕と曹植の間には男の兄弟が他にいるんですけど、ソイツはガン無視されてます。可哀想ですね。

で、跡目争いが勃発するわけですが、結果は曹丕の勝ちです。というか、曹植自身が本気で後継者になりたかったのかも定かではありません。側近が勝手にその気になっただけだろ説もあります。

「植、才をもって異とせらる。しかして丁儀、丁翼、楊修等、之が羽翼と為る。太祖狐疑し、殆ど太子と為さんとすること数々なり。而るに植性に任せて行い、自ら彫励せず、飲食節ならず。文帝之を御するに術を以ってし、
情を矯めて自ら偽る。官人左右、並びに之が節を為す。故に遂に定めて嗣と為す」

訳:曹植はすげー才能あったから丁儀とかが跡継ぎにしようとしたよ!、曹操もほとんどその気になったよ!でも曹植は自由気ままに飲んだくれて遊びほうけたよ!でも曹丕は跡継ぎのこともあるからきりっと真面目にしてたよ!だから曹操も跡継ぎはやっぱ兄ちゃんにしたよ!

出典:三国志 魏志 陳思王植伝

だ、そうです。これも事実かは微妙ですが、いずれにせよ後継者にならなかった曹植の人生はここから急転落し、悲惨時代に突入していきます。

年表形式でどうぞ。

216年…後継者争い敗北に負けるよ! さらに一緒にサロンで文学を語り合った仲間たちが次々に死ぬよ!曹植以外はジジィが多いから仕方ないね!


219年…親戚の武将曹仁さんがピンチになるよ!んでパパから助けに行け、って言われたけど…曹植さんはこのときベロベロに酔っ払ってて無理だったよ!このせいで曹植の立場はさらに悪くなるよ!

220年…パパ曹操が死んじゃうよ! 悲しいよ!んで兄貴の曹丕が皇帝になったよ!そうするとそっこーで曹植の側近で仲良しの丁儀と丁翼は曹丕兄ちゃんに誅殺されちゃうよ!しかもさらに住み慣れた土地から離され、都から離れた封地に実際に赴任することになっちゃったよ!

221年…またまた酔っ払って、お目付け役の人に絡んだよ!するとチクられて、もっと遠くに左遷されたよ!

223年…曹彰兄さんが死んだよ!あと曹丕兄さんの奥さんで、密かにハァハァしてた(説もある)皇后、(義理のお姉ちゃんね)も兄さんに殺されたよ!
お姉ちゃん好きだったからショックだよ!

226年…ついに曹丕兄さんも死んじゃったよ。。もう誰もいないよ

232年…四十一歳。そんなこんなしてるうちに死んじゃったよ。

ちなみにこの間、曹植は皇帝の実弟であるにもかかわらず、政治にも戦争にもまったく参加していません。曹植自身はずーっと、政治参加させてよ! って言ってましたが、全部シカトされてます。

前半の恵まれてた時代を考えるとひどい転落です。ドラマチックですね。


こんな感じで可哀想にみえるから、隋の王通とか明の王世貞とか、多くの文人は曹植を「曹植はえらい! 兄さんに天下を譲ったんだよ…」って評価してて曹丕を陰険な虐待ヤロウだ、って言ってます。


本来なら曹植ちゃんが後継者なのに、曹丕が卑怯なことして、んで曹植ちゃんもわざとブラブラ適当に生きてパパから嫌われて後継者の座を兄に譲った。なのに兄ちゃんはその後も曹植をいたぶり続けたとか言ってます。

でもこれはやや贔屓目というか、判官びいきな評価な感じかもしれません。

客観的にみて、政治とかそのあたりは兄貴のほうが明らかに上だし、曹植ちゃん奇行が目立ちます。

曹植からはすげー文学と歌の才能があったかわりに、仕事とかなんにもできませんよー、っていうヤツな匂いがするのです。

さてそんな人生を送った次。曹植ですが、特筆すべき志向がありました。

夫れ、街談巷説も必ず采る可き有り。撃轅の歌も風雅に応ずる有り。
匹夫の思いも未だ軽んじて棄て易からざるなり。

訳:ストリートで流行ってる話とかジョークも結構いいぜ。車の轅をたたきながら歌う歌の中にも『詩経』に通じるものがあるぜ!パっとみ、その辺のフツーっぽい人の思いとか、バカにしちゃいけないぜ?

出典:楊徳祖与書

曹植は民間の歌とかをを楽しげに歌ったりしてたっていう情報も残ってまして、要するに民間文芸志向ってことです。

長くなりましたがここまでで曹植について覚えていてほしいのは、

1 古典に通じていたよ!

2 生活の激変を体験したよ…

3 政治とか仕事したかったけど無理だったよ。

4 民間芸能大好きだったよ。

以上の四点です。で、ここから本題となる曹植の作品についてみていきます。

僕はフィクションの神だ/曹植が作り出す自然現象

まずはこちらをご覧ください。建安時代よりずっと昔からある楽府(民間発生の詩みたいなもん)と、それをカバーした曹植作品です。

「薤露」(オリジナル)
薤上露       薤の上露は
何晞易       何ぞ晞き易や
露晞明朝更復落   露は晞くも明朝更に復た落つ
人死一去何時帰   人死して一たび去らば何時か帰らん

訳:韮の葉の上の露って蒸発しやすいなあ。いやね? 露は乾いても、明日になったらまたつくじゃん? でも人間って死んだら戻れる?いや生き返れないよ

「薤露行」(曹植・カバー)
(前略)
人居一世間   人の一世に間に居ること
忽若風吹塵   忽として風に吹かれる塵の若し
願得展功勤   願わくわ功勤を展ぶるを得て
輸力於明君   力を明君に輸たさん

約:人の一生!風になびく!塵!みたいに刹那的!
だから俺は、だから俺は!見せるぜ俺のポテンシャル!すげー人に、俺の君主に使える!

オリジナルのほうはストレートに「人生一瞬だね、むなしいね」っていう歌。曹植ちゃんのはそれに加えて、自分の思い爆発って感じがします。

これは上述した建安時代以前に流行ってた「賦」ではなく、叙情的な「詩」であることがおわかりいただけるでしょうか。曹植はこういうのが好きでした。

また、曹植の詩は作品はほかと比べてリズムやノリがよかったらしいです。他の文人は詩を乗せる音楽を専門のプロに作らせることが多かったのですが、曹植は自分で作曲していたという説があります。

こんな感じでこの時代の文人は積極的に叙情的な民間詩をカバーしていました。でもそのなかでも曹植はブッチギリに数が多いです。民間芸能大好きマンだからです。

そのなかでも曹植が特に好きだったのは「棄婦」を歌ったものです。棄婦というのは、恋人とか夫に振られたり戦争いかれて寂しい女性を指します。

一例をご紹介。

 
「七哀詩」(曹植)
名月照高楼  名月高楼を照らし
流光正徘徊  流光正に徘徊す
上有愁思婦  上に愁思婦有り
悲歎有餘哀  悲歎して餘哀有り
借問歎者誰  借問す歎する者は誰ぞ
言是客子妻  言う是の客子の妻なり
君行踰十年  君行きて十年を踰え
孤妾常獨棲  孤妾常に獨り棲む
君若清路塵  君は清路の塵の若し
妾若濁水泥  妾は濁水の泥の若し
浮沈各異勢  浮沈各おの勢いを異にし
會合何時諧  會合何の時にか諧わん
願為西南風  願わくわ西南の風となり 
長逝入君懐  長逝して君が懐に入らん
君懐良不開  君が懐良に開かずんば
賤妾當何依  賤妾當に何れかに依るべき 

訳:明るい月は照っている、高楼には月明かりに照らされて
悲しんでうつむく人がいる。
泣いているのは、誰? 愛してる人が旅に出てしまった人。
君がいなくなって十年だよ。私はずっと一人ぼっち。
君は清らかでフワフワな塵みたい。
私は暗い水に浮かぶ泥なのかな?
いつ会えるの?風になってあなたの胸に飛んでいきたいよ…
でもあなたが受け入れてくれなかったら胸を開いてくれなかったら、
ワタシはどうしたらいいの?

すごくないですか。なんかJポップに通じるものを感じます。ほんわりと西野カナの風です。会いたくて震えます。ちなみにこれも古い詩からインスパイアされた作品です。

曹植は本当にインスパイアが好きな人で、残した詩の過半数は元ネタがあるインスパイア曲でした。

「門有萬里客」「泰山梁甫行」みたいな漂泊歎きモノ
「升天行」「遠遊」「飛龍篇」みたいな仙人モノ。
ぜんぶ伝統的なイメージをもつ作品です。


少きより、終わるに至るまで、篇籍手より話さず、
誠に能くしがたき異なり
訳:ガキのころから死ぬまで、いっつもなんか読んでた。普通じゃねぇ
出典:三国志 陳思王伝

曹植はこんなこと書かれるくらいに古典を読んでいて、民間志向が強い人です。だから、「賦」じゃなくて「詩」「楽府」に傾いたのも頷けます。

この辺が最初にふれた「其の源は国風より出ず」=「伝統的なリリックスキルをもってた」っていう中身になります。曹植の伝統的・擬古的な要素です。

では次に曹植のオリジナリティに迫ります。

でもその前段階として「興」というものについて説明しします。興っていうのは中国に昔からある民謡とかで使われるテクニックでして、「詩経」とかでよく出てきます。

「興」とは一言で言えば、比喩的な自然描写のことです。詩の頭に何らか
の自然描写をおき、その後に続く人事の叙述の暗喩とする、といった表現技法が「興」。
自然に人事・感情のシンボルを見出すといったものともいえます。

分かりづらいと思うので具体例を出します。

曲はアルバム「詩経」より、大ヒットナンバー「桃夭」です。


桃之夭夭  桃の夭夭たる
灼灼其華  灼灼たるその華

之子于帰  この子とつぎ帰らば
宜其室家  その室家に宜しからん

訳:若い桃の木、奇麗な花とたわわな実がなってるよ。
この娘はお嫁にいったのなら、そこんちの人とうまくやってほしいよ

詩の前半部分と後半部分、ストーリー的には関係ないですよね? でもなんとなく嫁いでいく女の子が桃みたいにみずみずしく可愛い感じがしませんか? 

普通に可愛い子、っていうより イメージしやすいです。こう……桃のように可愛い子なわけですよ。
これが興です。桃を女の子の暗喩にしています。自然物を人間の営みの連想に使う方法ってことです。

『詩経』にはこんな「興」の手法がいっぱいあるのですが、「その源は国風より出ず」と評された曹植も得意なライムスキルです。

では次の曲を。


「盤石篇」(曹植)

盤石山巓石  盤石たる山巓の石
飄颻澗底蓬  飄颻たる澗底の蓬

我本泰山人  我は本泰山の人
何為客淮東  何為れぞ淮東の客たる
(後略)

訳【重そうな感じの山頂の石、ひらひらと風にふかれる谷底のよもぎ
俺はもともと泰山の人間、だけど今では東海の旅人。後略)

これ、泰山にいたときはどっしり石みたいな生活してた。いまではヨモギの
ように風に揺られてるよ俺。っていう「興」です。伝統テクニックを奇麗にそのまま使っていることがわかります。

でもこれだと、ただの古典スキルどまりです。曹植はこのテクニックを進化させていきます。次の曲行きます。

「雑詩六首其二」(曹植)

転蓬離本根  転蓬は本根を離れ
飄颻随長風  飄颻と長風に随う
何意迴飆擧  何ぞ意わん迴飆の擧がり
我吹入雲中  我を吹きて雲中に入れんとは
高高上無極  高高と上がりて極まり無く
天路安可窮  天路安くんぞきわ窮む可けんや
↓ 
類此遊客子  類たり此の遊客の子の
捐躯遠従戎  躯を捐てて遠く従に戎い
毛褐不掩形  毛褐形を掩ず
薇藿常不充  薇藿常に充たざるに
去去莫復道  去り去りて復た道う莫かれ
沈憂令人老  沈憂人をして老いしむ

訳:ヨモギが根元はなれて風に舞い上がる!
つむじ風に吹いて吹き飛ばされる!雲に入る!
高く高く上っていく! でも天空には終わりがない!
どこまでいっても終わりはない!
それってまるで旅人が遠く従軍するみたい!
着物もたりない、食べるものもない!
わらびや豆の葉もとても腹を満たすには足りない!
やっべやめよう。愚痴ってたら老けちまう!

これでも風に吹かれるヨモギが、従軍する人を連想させる「興」として
使われています。でも今までのとはちょっと違うのです。どこが違うのか?これについては、黄節という人が『曹子建註』って注釈で説明してくれています。


「凡そ物は其の本所有らざる莫し。蓬の本所は根に在り。
之を離れれば即ち或いは東し、或いは西し、或いは南し或いは北す。
自ら主る能ず。随うとは、自ら主らざるなり。然れば丁風に随わば東西の離ありと雖も長風に随わば東西の離ありと雖も、未だ嘗て上下に分かれざるなり」

これは要するにこういう指摘です。

「ヨモギってさ、風に飛ばされたら東西南北、二次元方向にはいくけどさ
縦方向にはいかなくね?まして天空まで飛ぶとか、ありえなくね?」

これまで「実在しそうな」自然描写しか使ってなかった興に、フィクションの「雲まで飛ぶとかパネェ」っていうびっくり描写を入れています。

この意味についてはのちのち解説しますが、その前に比較として 曹操が書いたヤツでやっぱヨモギをモチーフにした作品を紹介します。

「却東西門行」(曹操)

田中有転蓬  田中に転蓬有り
随風遠飄揚  風に随いて遠く飄い揚がり
長与故根絶  長く故の根と絶れ
万歳不相当  万の歳までも相い当わず

訳:田んぼにヨモギがあるよ。
風に吹かれて遠くのほうまでいって
根元から離れたよ。(おなじように旅に出た人も)
一万年くらいたっても元のところに帰れないよ。

どうでしょうこれ。比較してみると、曹操作品の普通のヨモギの動きより曹植のヨモギが天空高くまで吹き飛ぶ、っていうありえない描写を入れたほうがファンキーだと思いませんか。

ヨモギが風で横方向に飛ばされるとか普通です。そこで常識を離れてみて「我吹入雲中」、雲に及ぶまで、吹き飛ばされ、天空を窮めるところまできたところで、いきなり旅人の話。インパクト抜群です。
そんな大変かよ旅人、天空とか。って思います。

これはつまり、ありえない自然の描写することでそのあとの人間の感情を大きく表現するってことです。この詩では悲哀感を強くする効果があります。


曹植は感情とかを強く読み手に伝えるために、伝統的なテクニックの「実際ありそうな」自然描写を用いた興の手法を進化させて「ありえねー」自然描写を用いた興の表現技法を使用したということです。

これは曹植による興の進化でして、詩のなかでさえフィクションっぽい派手な描写があんまりなかった文学の世界からすると、革命的なことです。

そして、曹植はこの「興」をここからさらに二段階進化させます。

では次の作品です。

これは曹植の側近が次々ぶっ殺されてた時期に作った詩であることを念頭において読んでください。

「野田黄雀行」(曹植)

1 高樹多悲風  高樹悲風多く                
2 海水挙其波  海水其の波を揚ぐ              
3 利剣不在掌  利剣手に在らずんば             
4 結友何須多  友を結ぶに何ぞ多きを須いん
5 不見籬閒雀  見ずや籬閒の雀
6 見鷂自投羅  鷂を見て自ら網に投ず
7 羅家得雀喜  羅する家雀を得て喜び
8 少年見雀悲  少年雀を見て悲しみ
9 抜劍払羅網  剣を抜きて羅網を払えば
10 黄雀得飛飛  黄雀飛び飛ぶを得たり
11 飛飛摩蒼天  飛び飛びて蒼天を摩し
12 來下謝少年  来たり下りて少年に謝す

訳【高い樹には悲しい風が吹きつけてる
海には波がたちさわいでいる
鋭利な剣をもたない俺が、どうして沢山の友達が持てる?
そこの雀をみてみろよ
タカをみて驚き、自分から網に飛びこんじまった
捉えたヤツは喜んでる
でもそれをみていた少年は悲しい
少年は剣を抜き去り、網を断ち切った
雀は自由を手に入れて、青空に飛び立った
けど、しばらくしてから戻ってきて、少年にこういったのさ
「ありがとう」

これもまた「興」 比喩的な自然描写を使っています。
ただ①~②で描かれてる風と海は作品全体のただならない雰囲気を表していますが、実際あってもおかしくない光景です。だからポイントはそこではなく、雀のところです。

網からたすけられた雀が戻ってきて少年に御礼言うとかありえません。明らかにフィクションです。
でもさっきヨモギの話もフィクションです。
どう違うのか? なにが進化しているのか?

『曹植集校注』っていう注釈では1の高樹は曹丕兄ちゃんの政権の象徴、
6・6の網は法律の例えだよ、って言っています。

さきほど、曹植は兄ちゃんが皇帝になってから側近がぶっ殺されたってことをお話しましたが、要するに、この詩はピンチな友達を助けたい(実際には救うことが出来なかったよ)って気持ちを表してる。ってことです。

これは大体の曹植研究者も同じ意見のようです。

と、いうことは、少年に礼をいうために戻ってきた雀は、友達を助けたらまた仲良く付き合いたいよ!って気持ちの表れなわけです。

助けた雀がそんままどっか飛んでいくより戻ってきて礼をするほうが、友情
感じます。これが詩の大体の意図です。なんかこう、悲壮な感じがします。

少年は剣で雀助けたけど曹植は3で言うように剣をもってないわけですから。

これまでの「興」では、自然描写したあと人間の描写が行われましたが、自然と人間は直接係わっていません。

ヨモギが旅人、桃が嫁入り娘、っていう
うっすらとした連想の材料にはなっていますが、ヨモギが旅人に「俺たち辛いねー」とか言わないし、桃を食った娘がもっと奇麗になったりしないわけです。

でもこの雀の話は人間の出来事とか心情とかを表すために「ありえねー」
自然現象を作って、しかも詩の主人公と直接絡んでいます。

ありえねーフィクションの自然現象を書くことでその後の人間感情のインパクトを高めたのが上のヨモギの詩。この雀の詩はフィクションの自然現象をさらに都合のいいように人間に絡めて作者の感情を表現しています。

詩の中では「友達助けたいよ…」とか「俺寂しいよ」とか言ってないのに
フィクションの自然が人間と絡むことで、そういう気持がストレートに書くより、ドラマチックに伝わってきます。

これが進化二段目です。
フィクション自然のあと人間描写

フィクション自然が人と直接絡む

では次の詩に行きます。
またヨモギの話なんだけど、ちょっと違っています。作られた時代は曹植ちゃんが後継者争いに負けたあとあっちこっちに左遷されて友達もいなくなって政治にも係われなくなってた時代です。長いのですが、訳だけでも読んでやってください。

「吁嗟篇」(曹植)

吁嗟此転蓬  吁嗟此の転蓬
居世何獨然  世に居る何ぞ獨り然るや
長去本根逝  長く本根を去りて逝き
宿夜無休閒  宿夜休閒無し
東西経七陌  東西七陌を経て
南北越九阡  南北九阡を越ゆ
卒遇回風起  卒に回風の起るに遇い
吹我入雲閒  我を吹きて雲閒に入れんとす
自謂終天路  自ら天路を終えんと謂いしに
忽然下沈淵  忽然として沈淵に下る
驚飆接我出  驚飆我を接えて出だす
故帰彼中田  故より彼の中田に帰すなるや
當南而更北  當に南すべくして更に北し
謂東而反西  東せんと謂うに反って西す
宕宕當何依  宕宕にして何れにか依るべき
忽亡而復存  忽に亡びて復た存す
飄颻周八澤  飄颻として八澤を周り
連翩歴五山  連翩として五山を歴たり
流轉無恆處  流轉して恆の處無し
誰知吾苦難  誰か吾が苦難を知らんや
願爲中林草  願わくは中林の草と爲り
秋随野火燔  秋野火に随いて燔かれなん
糜滅豈不痛  糜滅するは豈に痛ましからざらんや
願與株荄連  願わくは株荄と連ならん

訳【あぁ、俺はヨモギ…どうして俺だけこうなんだい?
朝から晩まで飛んで流れる東西南北、止まらない
そのうち風で吹き飛ばされ天空の頂点までキラリ光って急上昇
と、思ったら深淵までごーっと吹かして急降下
もうだめだ、と思ったらまた風に吹き上げられる。次こそは元の田んぼに
帰れるかな
東西南北この果てしなく広がるこのworld
いったいどこにいけばいい?
消え去った?と思ったら生き延びる。
ふわふわ舞って八木沢を回る
ひらひら飛んで、五山を巡る。
いつまでも流れ続ける俺の苦しみ。誰がわかってくれる?
いっそ(蓬なんかより)林の中の草になって秋に野をやく火で焼かれてみたい。
焼けることなんで屁でもない。俺はただ、かつての仲間と一緒にいたいだけ
なんだ

さっきの「雑詩六首其二」と似ています。
あっちこっちに左遷されるのがそんなに辛いのか、どっちも吹き飛ばされるヨモギに流浪の人間の辛さを重ねています。

でも、二つの詩には決定的な違いがあります。
後半部分になんか違和感がありませんか。

「雑詩六首其二」では「類此遊客子」(それって旅人と似てるよね!)
って言ってて、しかも「去去莫復道 沈憂令人老」(愚痴ってたら老けちまう)って言ってます。

ってことはこれは全体的に人間の話で、最初のヨモギの部分は単に連想の材料として使ってるということです。

要するにフィクション自然は使ってるけど自然→人事という形をとる基本パターンです。

けど『吁嗟篇』では最初から最後まで全部ヨモギの話でヨモギの気持ちです。全編フィクションでお届けします。

でも、わかりませんか? これは、人間の気持ちを歌ってるんだって。

単に俺辛い、俺あっちこっち飛ばされて辛い、仲間と一緒に死にたい
って人間がストレートに叫ぶより。ぐっときませんか?幻想的で、印象深くないですか?

フィクション自然のあと人間描写

フィクション自然が人と直接絡む

オールフィクション自然。人間無し

このような進化を遂げたわけです。

曹植は超リア充から転落して「かなしい」って感情が強すぎて従来の方法では表現しきれず、人間以上の動きをする架空の自然を使ったのかもしれません。

あるいはお兄ちゃんや周囲の手前、ストレートに自分の叫びとして歌えなかったのから、突っ込まれても「いやこれヨモギの話ですけど何か?」って感じにしたかったのかもしれません。

どっちにしろ、感情にあわせて自由自在に自然を創造し拡大し、動かし、詠む技を開発したわけです。

ここまでで、自然描写の話は終わりとなります。

詩の中の物語構造~曹植と張遼、時々西野カナ~


次に次「人称」をテーマとしたお話。

前置きすると「私は~」ってな感じで自分の体験とか感情を言う感じの
表現の詩は一人称で、「彼が~」といった客観的な描写の形式で詩が展開する場合は三人称的です。


一般的に「俺は~した。俺は~と思った」っていう一人称は誰かの独白を聞いてる感じだから聞き手は物語って感じがしにくいし、具体的な状景(シーン)のイメージがわきにくい。だけど感情の告白とかは本人からの語り口で伝えられる形だから感情表現とかは伝わりやすい。とされています。

一方、「ある人がいました、その人は~」とした三人称的な場合、作品は「物語」として捉えやすくなります。

聞き手・読み手に作品で描かれる世界を仮構的にイメージさせる半面、登場人物の心情告白には向いてないとされる形です。描かれる心情は推測・伝聞といった印象になるからです。

では、中国に昔からある詩、詩経とか、民間歌謡とか。曹植の時代の
文人にカバーされたりしてたヤツこの辺は何人称でしょうか?

吉川幸次郎って学者先生は次のように言っています。

〈『国風』篇についていえば、その内容は、既婚あるいは未婚の男女の愛情のよろこびあるいはかなしみの歌、農耕を中心とする労働のよろこびあるいはかなしみの歌、それらの農民が兵士になったときの歌、
為政者の行動なり施政をたたえあるいはそしる歌、友情のよろこび、またその裏切りへの憤りの歌、などであるが、すべてはみずからの感情を歌った抒情詩である。〉

要するに、一般人たちの感情を詠った詩だから抒情詩だぜ!ってことです。この抒情詩たちは何人称でしょう?

決まった作者がいないし、民間で自然に生まれたような詩だから、「誰の」ってわけじゃないけど、その詩は「オラ嬉しいだ!」「わたし悲しい…」っていう不特定多数の意思の集合のオラ、ワタシが一人称で語ってる感じです。 上であげた「桃夭」も同じですね。


桃奇麗ねー、娘さんが嫁にいくねー、うまくやってほしいねー。これは、この詩を詠んでる人本人の気持ちです。

花子さんは桃を眺めた、花子さんは娘に幸せになってほしいと思った。
っていう三人称ではありません。

もう一つ例をあげます。

長歌行(楽府古辞)
(前略)
百川東到海  百川東して海に到らば
何時復西帰  何れの時か再び西に帰らん
少壮不努力  少壮努力せずんば
老大徒傷悲  老大徒に傷悲せん

訳【東に流れる川の水、一回海に流れたら、いつまた戻れる?
同じように人間も若いとき頑張らないで、年取ってから後悔しても、
それってむなしいよね

これも「詩を読んでる人」の気持ちですね。誰かの気持ちをまんま
詩としてダイレクトに言ってます。だから一人称的な詩です。

では、こうした古い詩をカバーした曹植以外の文人は何人称で作ったのでしょう? 


ここで上述の詩からインスパイアされた一曲。乱世の姦雄にして超絶の士である、かの曹操がリリースした一曲で、私も個人的に大好きな一曲です。

「短歌行」(曹操)

對酒當歌  酒に對しては當に歌うべし
人生幾何  人生は幾何ぞ
譬如朝露  譬えば朝露の如し
去日苦多  去日苦だ多し
慨當以慷  慨して當に以って慷すべし
憂思難思  憂思も思い難し
何以解憂  何を以って憂いを解かん
唯有杜康  唯杜康有るのみ
(中略)
山不厭高  山は高きを厭わず
海不厭深  海は深きを厭わず
周公吐哺  周公哺を吐きて
天下帰心  天下心を帰す

詩訳:酒を飲んだら歌おうぜ!
人生はどれだけ続くかわかんねぇ!露みてぇなもんだ!
過ぎ去た日は多い、功名はそうそうあがらねぇ!
だから鬱になるのは仕方ねぇ!
それじゃあ俺らはどうしたらいい?
鬱を消すには酒だ酒!
だから酒のむときは楽しく歌え!
(中略)
山は高いことをいやがらねぇ海は深いことをいやがらねぇ!
だから俺も優秀なヤツを雇うのはいやがらねぇ!
周公はっつー偉い人はメシくってるときゲロはいてでも
天下のすげーヤツと接した!
俺もそうするのが理想だぜ!

読むとわかりますが、これ完全に曹操さんの心まるまるそのままです。豪快だけどどこか切なげな感じもします。これはもちろん「俺はそう思うし、そうする」って一人称ですね。

この時代、この時代以前の詩っていうのは作者の独白にしろ、名もなき誰かの気持ちを歌うにしろ、全部、詠んでる人による「ワタシは~」っていうモノローグの体を取った一人称が主流だったということです。

では曹植の作品はどうだったのでしょう? 分かりやすい詩をあげてみます。これは三国無双にも登場する「ある人」を詠った名曲でして、若き日の曹植の憧れが形になったような勇壮なナンバーとなっています。

「白馬篇」 (曹植)

白馬飾金羈  白馬金羈を飾り
連翩西北馳  連翩として西北に馳す
借問誰家子  借みに問う誰が家の子ぞ
幽併遊侠兒  幽併の遊侠兒
少少去郷邑  少少にして郷邑を去り
揚聲沙漠垂  聲を沙漠の垂に揚ぐ
(中略)
損躯赴國難  躯を損てて国難に赴く
視死忽如帰  死を視ること忽ち帰するが如し

訳:黄金のおもがい馬具に飾られた白馬が西北へ疾駆する!
思わず尋ねてしまう。あなたはいずこの方か?
俺は幽併のタフガイ!若いときに地元を離れ
遥か遠くの沙漠でもビックになった男!
(中略)
この身を賭けて、国の危機を救ってみせる!

死ぬことさえも恐れはしない!


全編、勇壮果敢にして威風堂々たる雰囲気があります。これは魏の猛将「遼来来」のキャッチフレーズで有名な張遼さんのカッコよさを歌った詩だとされています。なお、曹植は張遼に懐いており、尊敬していたそうです。

さてこの詩は何人称でしょう。後半ではタフガイの心が独白されていますが、最初のほうでは馬をはたから見て、タフガイに問いかけてる人がいます。そしその人の主観で詩が展開されていきます。詩のメインテーマはタフガイなのにです。

解説の前にもう一つ詩をご紹介します。

「美女篇」 (曹植)

美女妖且閑  美女妖にして且つ閑なり
采桑岐路間  桑を采る岐路の間
(中略)
借問女何居  借みに問う 女は何くにか居る
乃在城南端  乃わち城の南端に在り
(中略) 
安知彼所觀  安んぞ彼の觀る所を知らん
盛年處房室  盛年房室に處り
中夜起長歎  中夜起ちて長歎す


訳【麗しく、物静かな美女が分かれ道のところで桑の葉を摘んでいる
(中略)
どこに住んでいるの? そう聞いてみた。
町の西南門のほうに住んでいます。
中略
(美女は人里はなれたところにいて、遠くや、部屋の窓から、
皆を眺めてる)
この美女が、人知れず皆を遠くから見つめてることに気づく?
誰も気づかない。
だから彼女は、年頃の美しい体と心を持て余し
夜中に起き上がっては長いため息をつく

人に知られず、村はずれの部屋の中にひきこもりがちな美女。体を持て余し夜中にため息をつく美女。なんかエロティックですね。

それはさておき、この詩を詠んでいる人は「美女」ではありません。美女に話しかけている「誰か」がこの詩を詠んでる人です。

で、美女がしばらく独白して、それを聞き終えた「誰か」が「あー年頃の娘が体持て余してるよー」って思う、って流れになってます。


安知「彼」所觀  安んぞ「彼」の觀る所を知らん、のとこです。
安知「我」所觀  安んぞ「我」の觀る所を知らん、ではありません。


だから、誰が「彼女」のことを知ってる?っていう客観的な視点であることが明確です。主題は美女の話なのに、詩の詠み手は美女に話しかけた「誰か」 これが三人称的な詩の形です。

この「誰か」が人としたら一人称×一人称「誰か」を単なる客観的な。神の視点としたら三人称となりますが、大事なのは、人称が切り替わってて、単なる独白じゃなくなっているところです。

これは結構スゴイことだと思います。

まず、三人称(または一人称×一人称)って言う人称変化の詩っていうのを定着させたのは曹植が中国、というかアジア初っていうのもスゴイんですけど、

そういうギネス的なこととは別にして、これが一人称で作られた詩だとしたらどうなるでしょう?

美女本人が「ワタシは美人だけど一人ぼっちなのよー、もてあましてるのよー」という詩…なんかこう、「へぇ、そうですか」って思いませんか。

「ほんとに美人なん?」って思いませんか。ちょっと冷めませんか?


でも誰かがまず明確に「麗しい人がいる」って言ってて、美女との会話が繰り広げられると状景がイメージしやすいし、説得力が増します。

単なる独白から、短い物語としてシーンに変わったことによる効果がそれです。

女性本人が「あー今日もわたし、もてあますわー」って言うより、
美女と知り合った人が「あの人は、今夜ももてあますんだろうな…」って言うほうが、よりグッときます。

さっきの「白馬篇」も同じです。

最初から最後まで「俺はタフガイ、俺はすごい、俺は国に命を賭ける」って独白されるより、

めっちゃカッコイイ人がいる。話しかけたらその人はこう言った。
「俺はタフガイ、俺はすごい、俺は国に命を賭ける」。

こっちのほうがカッコイイです。かっこよかったり、綺麗だったり、って言う描写は独白オンリーより、客観性のある物語風、または一人称が途中で切り替わる、にしたほうが、説得力がある気がします。

いずれにしろ、曹植は、ただの「独白」だった詩に「物語」の要素を加えたってことです。

客観的描写でシーンをイメージさせて、詠み手・聞き手を作中の虚構世界観に引き付け、そのあと主観描写で感情を独白

一人称と三人称のミクスチャーです。

ちなみに上で紹介した七哀詩(西野カナみたいなヤツ)も人称切り替え式になっています。月明かりに照らされてる西野カナ(仮称)をはたから見て、
「君は誰?」と聞く観測者と西野カナです。

観測者の視点があったほうが、高楼で月明かりに照らされるカナのビジュアルイメージわきます。

最初から「わたし寂しい」言われるよりなんかイイです。

なお、こういう三人称と一人称が混ざり、切り替わるスタイルは、現在日本の小説やライトノベルでもよく見られます。

太郎は、転んだ勢いで花子の胸を触った。

なんだ? この柔らかいものは?

直後、太郎の頬に鋭い痛みが走る。

みたいな感じの奴です。

曹植の生み出した詩のスタイルは、これに繋がっていくものですね。

魏よ、中華よ、世界よ、俺の歌を聴け!

まとめにはいります。

建安の時代には文芸の主流が「賦」から「詩」に変ったというこを最初らへんでお伝えしましたが、思ったより記事が長くなったのでおさらいします。

「賦」ってのは首都の有様とか宮殿の様子とか、政治とかでっけー事象をテーマに作者の学識を披露しつつ書いていく、硬めで叙述的(出来事)なヤツです。

んで「詩」ってのは人間の感情をテーマにして、リズムやメロディに乗せて思いをのせて歌い上げる叙情的(感情)なやつです。

詩ってのはもともとちゃんとした文芸ってみなされていませんでした。
庶民が歌う、しょーもないものだと思われてたわけです。

でも曹植はそう思っていませんでした。
民間の些細なことを愛して、人の心を歌いつづけました。

だからこそ、詩を文学に引き上げ、賦から詩へと、文芸を変換させた文人たちの先頭に曹植はいたのです。

ただその辺に転がっていた心をテーマに歌った。
それは若き曹植が気取らず、自由な人だったからです。

彼は、中国の文芸のメインストリームは賦から詩へと変わるトリガーとなりました。

古典をよく知っていた曹植は伝統的なリリックスキルを持っていました。そして激動の人生を送ったことで生まれた感情を表現するために伝統のスキル「興」の手法を進化させて、詩の中におけるフィクションを作り、人間の感情を表現するために自然や事物を自由自在に拡大して変形させました。

そして「人称の切り替え」を「詩に物語的なインパクトをもたらす要素」として文芸のなかで生み出したのです。

伝統的であり、革新的でもある、っていう曹植ちゃんの評価はここらくるものです。なので、矛盾はしていないのです。

建安の時代に起こったブーム、叙述から叙情へ、自然を表現のためにフィクション化する流れ。
こんな流れは中国、ひいてはアジアの文学史に強い影響をもたらします。

さて、ここで問題です。賦から詩に移り変わったメインストリーム、感情を表現するためのフィクションを歌にとりいれるっていう表現。

建安時代、西暦200年ちょっとにおきたこのブームは、いつまで続いたでしょう?

正解は、「今でも続いてる」

当時先進国だった中華、その文芸の表現技法はアジア諸国へ伝わって
歌謡の、文芸の礎となりました。

和歌だってそうです。唐から持ち帰った人から受け継がれた歌は、叙情的
(心を歌う)で平易なメロディにのせられて、フィクションの自然描写がはいります。

芭蕉の「静けさや、岩にしみいる蝉の声」
とか、それっぽいですよね。声は岩にしみいりません。

今でも、「歌」は感情を歌うものですし、そこに感情表現としてのフィクションの自然描写が出るのもフツーのことです。


「ツナミのようなわびしさに」
「青い稲妻が僕を攻める」
「千の風になって」

全部感情を歌ってて、しかもフィクションの表現を使っています。んで小説や物語で、三人称と一人称がまざるのも普通のこことです。

それを中華にもたらしたのは曹植で、中華の世界的影響力はかなりのものです。

けっこう凄いことだと思いませんか? 乱世の群雄を制した父曹操、皇帝となり、国家を動かした兄曹丕。もしかしたら、この二人に並ぶかもしれない功績です。

大昔の中国は文芸の最先端でした。

そんななかで、感情をフィクションで増幅させ、自作のメロディに乗せて歌う、っていうことを打ち出し、文芸の世界を変革させたのは曹植でした。後世にその影響があるのは自然なことです。 

では、ここでラストナンバーをお聞きください。曹植の人生を表現した、名曲だと思います。

雑詩六首 其六 (曹植)

飛觀百餘尺  飛観 百余尺
臨牖御櫺軒  牖に臨んで櫺軒に御る
遠望周千里  遠望 千里に周く
朝夕見平原  朝夕 平原を見る
烈士多悲心  烈士 悲心多く
小人婾自閑  小人は自閑を婾む
國讎亮不塞  国讎 亮に塞がらず
甘心思喪元  甘心して元を喪わんことを思う
拊劍西南望  剣を拊して西南を望み
思欲赴太山  太山に赴かんと思欲す
絃急悲風發  絃急にして悲風発す
聆我慷慨言  我が慷慨の言を聆け

訳:高い楼に立ち遥か遠くの世界を望む
窓に立って窓の手すりに寄りかかる
遥か千里の彼方を眺め
朝も夜も、平原を見つめる
気高きものは世界を悲しむ
つまらない連中はぬくぬくした怠惰をむさぼる
国の困難は今でも蠢いている
俺は命を賭けてそれを変えたい
剣を撫でつつ 西を南を眺める
立ち向かうために泰山へ赴きたいと願う
弦の音色はますます勢いを増し、悲しみと祈りの風を生む
人々よ 我が高ぶる魂のウタを聞け

熱気バサラみたいですね。

曹植は戦国の時代にあって、父や兄、仲間と一緒に戦いたかったのかもしれない。国難を救いたかったのかもしれません。でもそれはかないませんでした。

悲しかったことでしょう。

だけど、それでも、ずっとずっと、心を歌い続けたその詩は、千年以上のときを超えて響いています。


その詩は後の中華の文芸を変えて、時代を超えて、国境を越えて「人間の心を歌う」っていう文化を強くしました。

それはもしかしたら、どんなに多くの戦争に勝つより、どんな国の皇帝になるより、大きな影響を及ぼしたことかもしれません。


魏を、中華を、世界を動かしたのかもしれません。

「我が逕寸の簡を馳せ 藻を流して華芬を垂れん」

これは、曹植の残した言葉です。

その言葉通り、今でもその歌は、華の香りを残しています。


以上でした! 長文にお付き合いいただきありがとうございます!

ここまで読んでくれた人がいるかわからないですけど、少しでも曹植作品の認知度向上に貢献出来たら嬉しいです。

曹植すげー!!とかツイートしてくれたら補足しますので、よろしくお願いします。

なお↓は本記事の参考文献となります。

〈テキスト〉  
『曹子建全集』  清流出版社  1976
『十三經注疏 2 詩経』  藝文印書
『楽府詩集』    中華民局  1982
『古迀書院刊本?補六臣注文選』 漢京文化事業有限公司  1980

   
〈注釈本〉
『曹子建詩注』 商務印書館 1930
『曹植集校注』 人民文学社 1984



〈主要参考文献〉 
著作
『曹植』 伊藤正文 岩波書店 1958
『中国詩史』 吉川幸次郎 筑摩書房 1967
『曹操―その文学と行動―』 武田晃 評論社 1973
『曹植と屈原』 小守郁子 1986
『洛神の賦』 目加田誠 講談社 1989
『中国詩人伝』 駒田信二 芸術新聞社 1991
『中国的レトリックの伝統』 井波律子 講談社 1996
『読書人の文学と思想』 中国古典文学研究会編 笠間選書 1976

論文
「曹植とその時代」 ・本田済
『東方学 3』 東方学会 1952

「曹植のアレゴリー」 福山泰男 
『山形大学紀要 13巻2号』 山形大学 1995

「曹操没後の曹丕と曹植‐不仲説の検証」 渡辺由美子
『二松 16』 二松学舎大学大学院、二松学舎大学大学院文学研究科 2002

「建安期の曹植の詩について」 道家春代 1990
『名古屋女子大学紀要 36』 名古屋女子大学

   

「曹植の詩について――「棄婦篇」と「種葛篇」を中心として」 上野裕人 2004
『 語文と教育』  鳴門教育大学国語教育学会

「曹操没後の曹丕と曹植――不仲説の検証」 渡辺由美子  2002
『二 松』 二松学舎大学大学院,二松学舎大学大学院文学研究科

「曹植詩賦の語彙・表現について―『時経』との比較を中心として」 張健 1994
『中国中世文学研究』 中国中世文学研究会 第26号

「曹植詩考――「悲風」を手掛かりとして」 中野将1992
『中国文化 』(The Chinese culture.) 大塚漢文学会(筑波大学文芸言語学系横山研究室内



「漢魏詩における寓意的自然描写――曹植「吁嗟篇」を中心に 」 亀山朗 1980
『中国文学報 31』 京都大学文学部中国語学中国文学研究室












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