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廣木隆一「彼女の人生は間違いじゃない」

さて、ひさびさに映画を観たのである。まぁ、なんだろう、日本の伝統的な小品を観たかったから選んだ、というわけなのだが、そうした意味では適切な選択であった。

何がよいかといえば、これはまず撮影がよい。新しいカメラでまっすぐに撮っている。この手の地方の生きづらさを描く作品では、フィルム的なテイストを出そうとするのが定番だが、本作ではバキっとデジタル一本で撮り、きちんと作品になる水準に仕上げている。冒頭の帰宅困難区域の朝や、上京なる行為をひじょうに効果的に表現している上空からの映像はいわずもがなだが、駐車場やパチンコ店内などがひじょうによかった。津波によって破壊された福島というのは、日常の薄さがビジュアル的にも露出してしまっている地区だということができるように思うが、そうした部分とそこにもやはり灯らずにはいられない人の熱れなるものが、適切な温度感で表現されていたように思う。

内容としては、ようするに「SHAME」の福島版ということになるだろう。

これを群像劇としてしか取り扱えないところが、まさに日本的弱さ、日本的微温ということではあるのだが、まぁ、そういうことも含めて、現在の日本の地方の気分なるものが適切に表出されていたのではないか。SHAME が NY 的であるのと同じようにして。

とくにそれ以上の解釈を重ねるつもりはないのだが、ひとつだけ。ところで彼女はいったい何を理解したというのだろう。月並みな言い方をすれば、それは自分もまたきちんと懸命に生活する権利があるのだということ、あるいはその義務さえあるのだということを理解した、ということなのだが、その表現形態が子犬である点や、それが父親にもなかば伝播する点などは、なんというか感慨深いものがある。日本には、生き様、という言い方があるわけだが、それはようするにこういうことなのであろうし、こうした伝播ないし連鎖というものが、ゆっくりと波及していくことで、日本的共同体というのは変容していくのである。

東京がそうした途を喪った者たちのモラトリアムの場として描かれているのもそれなりに興味深い。たしかに東京は中心なのだが、その中心には穴があいている。そして穴だからこそ入る場所もあれば隠れることもできるのである。私自身は東京を離れてしまったわけだが、離れてみてあらためてそういった東京の機能(つまり、時の流れを捨象する場としての都市)なるものを思い出深く感じるところはあるのだった。

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