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山本七平 「常識」の研究

さて、私は今年は山本七平に傾倒してみようと思っているわけなのだが、そのためには、彼の考えにどの程度(日本的なスコープにとどまるが)普遍性があり、現代でも適用可能なのか、ということを知る必要がある。

その点で、このエッセイ集はちょうどよいものであった。話題も多岐に渡り、当時の日本でどういった事柄が社会問題として扱われており、山本七平がそれをどのようにピックアップし、そこからどのような普遍性を抽出していたのか、といった点が垣間見える。ちなみに当時というのは、今からちょうど40年前の1980年前あたりのおそらくどこかの雑誌か新聞だかに載った連載コラムをまとめたものである。

そこでは戦後30年経ったが、いまだに日本人は戦争の失敗を本当に反省してはいない、といった嘆息や、これから高齢者が人口の15%を超えるようになってくると社会として衰弱し始めるであろう、といった見通しや、事実をありのまま見ることの難しさや報道機関のフィルタリングの問題、南北問題と民族の行き方の関係といったことが数頁のエッセイとして語られている。なかには今では若干ずれた議論になってしまっているものもあるが、その多くは国際情勢や国家観のもので、民族の根っこの問題や、情報の分断がもたらす帰結としての感情の問題、高齢化や経済の基本的な趨勢といった、普遍性のある問題は40年経った今でも基本的は有効である。

山本は聖書関連の小出版社の経営者・編集者であったということもあって、イスラエルや中東問題、そこから派生するキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の対比などが話題としてのぼってくるが、このあたりはユダヤ教やグノーシスに興味を持って、界隈の書籍をいくつか読んできたし、中東関連の映画にも関心をもってきた私にとっては親しい話題であった。

で、まぁ、結論としては、山本七平はベースとしては社会主義的発想をかなり強くもった理想主義者であるといえるだろう。そこから、従軍経験や出版社の経営と聖書を主軸に据えた各種の宗教研究などが渾然一体となって山本七平なるものの見方が形成されている。

彼が日本人の行き方に独特の見方をもち、これを研究課題とするのは、彼自身がその理想状態に共感というか彼自身の行き方として根深くあるものが、現実にもたらす帰結があまりにも理想とかけ離れているからだ。そして、この理想状態なるものを帰納し、そこに自身の人生の価値を仮託してしまう、というのは彼自身の根っこにはキリスト教(一神教)的なものの見方があるからである。だが、実際にはそんなものはない、というところがまさに問題で、彼は生涯ずっとこの問題にかかずらっていたわけである。

彼の基本的な発想からすれば、あらゆるものには根があるのだし、そうであれば当然のことながらその行く末の帰結もあるはずだし、この根と行く末との間を結ぶ直線こそがその行き方の思想(コンセプト)にほかならず、これを完全に明瞭に自覚すれば、その中心なるものが自ずと示す理想像に向かって一歩一歩進んでいくことができるはずである。

この考え方には私もまったく同意するわけなのであるが、ようするに日本人の行き方というものはそういうものではないのだ、ということが山本七平の学問の中心である。だから、エッセイも自ずからそういう視点になる。芯の欠如とそれがもたらす混沌や失敗といったものが彼の関心を惹くのだ。

そうした意味で、40年前と現在とで大きく変わったのは、やはりグローバリゼーションと、それを可能にする科学技術とそこから生じる経済のプレゼンスなるものの大きさであろう。現代においては、国家間の関係性やそれぞれの国家の政策、民族の個性を語ることが未来を見通すことに直結するということにはほとんどならない。そうではなく、テクノロジーとその主導権とが未来を見通す鍵なのである。

逆にいえば、そのくらいしか変わっていないともいえる。山本七平だったら、現在の情況をどう読み解いていただろうか、と考えることは楽しい。印刷出版業の消滅などについても、彼の時代にはさすが考えづらかったであろうが、これについてもコメントを想像するのはなかなか楽しい。彼自身は徹頭徹尾実学の人であったので、こうした情況の変化にも彼自身のテリトリーにおいてはうまく対処したことであろうが、社会全体としてこうした情報社会に入っていったときに、今なされているような議論のほかに何か視点があったものだろうか、というあたりである。

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