推古天皇とはどんな人、出来事や行った政策を紹介
飛鳥時代の天皇の1人である、推古天皇を知っていますか?
推古天皇は、日本初の女性の天皇です。
本記事では、推古天皇の紹介、主な出来事などを紹介します。
推古天皇とは
推古天皇とは、飛鳥時代の天皇の一人であり、初の女性の天皇です。
554年〜628年にかけて生き、在位期間は592年〜628年です。
本名は額田部であり、炊屋姫とも呼ばれていました。
古墳時代の天皇である欽明天皇と、蘇我氏の家系である蘇我堅塩媛との間に生まれました。
配偶者は敏達天皇です。
天皇として即位すると、叔父の蘇我馬子と、甥の聖徳太子との3人体制で政策に取り組みます。
系図
主な出来事
殯宮での事件
586年に、穴穂部という推古の腹違いの弟が、敏達天皇の殯宮にいた推古を犯そうという奇妙な事件が起こりました。
殯宮とは、遺体を安置しておく建物のことです。
始めは、穴穂部が殯宮に入ろうとしたが、敏達天皇の家臣だった三輪逆が門を固め、穴穂部を入らせなかったことです。
穴穂部が門を開けるように要求しても聞き入れなかったので、これは無礼であると、蘇我馬子と物部守屋の両大臣に経緯を知らせました。
その後、三輪逆を討伐するために、守屋と共に兵を率います。
逆は密かに、推古の別荘である宮殿に身を隠したが、同族に密告されました。
穴穂部が守屋に討伐を命じたが、馬子が穴穂部に止めるように言ったが聞き入れず、最終的に逆は守屋に討伐されました。
馬子は「天下が乱れるのも遠くはあるまい」と嘆いたそうです。
三輪逆は推古を警護する立場にあったと考えられ、推古に信頼されていた家臣と思われます。
推古の別荘に避難したことも根拠です。
穴穂部の狙いとしては、推古と婚姻することにより、推古側にいる蘇我氏の力を手に入れることだったと考えられます。
穴穂部の誅殺
推古天皇の配偶者であった敏達天皇が585年に亡くなり、次に即位したのは推古の兄である用明天皇です。
しかし、病にかかり僅か2年の即位期間であり、587年になくなります。
用明天皇が死去した後に、穴穂部と物部守屋が挙兵を企て、次の天皇を決める暇がない状況でした。
挙兵に対して推古は「兵を装備して速やかに行き、穴穂部と宅部を誅殺せ」と命令しました。
その日のうちに穴穂部が殺され、翌日に宅部も殺されます。
宅部は宣化天皇の子で、穴穂部と親しかった存在です。
穴穂部の挙兵に対して、推古は討伐命令が下せる立場にありました。
日本書紀に書かれている穴穂部の事件では「炊屋姫皇后」と書かれています。
だが、討伐命令と崇峻天皇の項目には「炊屋姫尊」という「尊」で記されています。
尊は天皇に対しての呼び名であり、命令を下した時点では、実質的に天皇の立場にあったと考えられます。
蘇我氏と物部氏の争い
蘇我氏と物部氏は、蘇我馬子の父の代から対立が起こっていました。
穴穂部を討伐したあと、蘇我氏と物部氏との間で、丁未の乱と呼ばれる全面戦争が起こります。
蘇我氏が勝利し、その後に即位したのは崇峻天皇だが、馬子に暗殺されるという事件が起きました。
崇峻のもとに猪を献上した出来事があり、それに対して崇峻は「いつかこの猪の首を切るように、私が憎んでいる人を斬ってやりたい」と言います。
その時期、朝廷では多くの兵や武器を集めており、馬子は自分が殺されるのではと判断し、崇峻を暗殺しました。
その次に推古天皇が即位します。
即位した経緯
推古天皇は、天皇としての実力を認められて即位したと言えます。
女性の天皇は、中継ぎとして即位するイメージがあるが、推古には政治判断力がありました。
穴穂部の挙兵にも屈することなく、蘇我馬子との連携により苦難を乗り越えています。
蘇我系ではない皇族とも向き合いながら、蘇我系を優位に持っていこうと行動しました。
目立った活動のない用明天皇のときには、実質推古が実権を握っていたと考えられます。
推古天皇が生きた時代は、朝廷の群臣たちの推挙によって天皇が決まる仕組みでした。
穴穂部の挙兵と丁未の乱を乗り越え、推古の支えもあり崇峻天皇を即位させ、馬子との連携による安定性を見せます。
群臣たちは推古の政治判断力を評価し、天皇に推挙しました。
天皇として行った主な政策
天皇として行った主な政策は、三宝興隆、遣隋使の派遣です。
三宝興隆は、即位して2年後の594年に出した、仏教を栄えさせる政策であり、国家体制の強化を目指したものです。
三宝とは、仏、法、僧の3つを指しています。
これにより、豪族たちが各地で寺を造営し始めました。
遣隋使は、当時の中国である隋に対して、技術や制度を学ぶために使者を派遣することです。
計3回行われました。
三宝興隆と遣隋使の派遣が目立った政策です。
推古天皇の遺言
推古天皇は628年に亡くなりましたが、その前日に2人の皇子に対して遺言を伝えます。
2人の皇子とは、敏達天皇の孫の田村皇子と、聖徳太子の子である山背大兄王です。
内容は下記のとおりです。
【田村への遺言】
「皇位について政務をとり人々をはぐくむのは、安易に言うべきことではない。
私はいつも重大に考えてきた。
お前も慎重に行動し、よく見極めよ。
軽々しく言ってはならない。」
【山背への遺言】
「お前はまだ未熟だ。
心で思うことがあっても、あれこれ言ってはならない。
必ず豪族たちの意見を聞き、従え。」
曖昧な表現ですが、次の天皇に対して示唆している内容に見えます。
群臣たちが推挙して天皇を決めるシステムだったので、天皇自身がハッキリと決められなかったのです。
次の天皇になったのは田村皇子(舒明天皇)であり、山背大兄王は、643年に蘇我入鹿によって暗殺されます。
女性の天皇は、中継ぎのために即位する事情があるが、推古天皇は政治判断力があり、純粋に天皇としての素質がある人物でした。
まとめ
・推古天皇は、飛鳥時代に即位した日本初の女性の天皇です
・腹違いの弟である穴穂部が挙兵したときは、討伐命令を下しました
・挙兵にも屈せず、蘇我馬子との連携により苦難を乗り越えるという、天皇としての素質を認められ即位したと言えます
・推古天皇は、蘇我馬子と聖徳太子との3人体制で政策に取り組みました
・天皇として行った主な政策は、三宝興隆と遣隋使の派遣です
・亡くなる前日に、田村皇子と山背大兄王に、次期天皇候補を示唆するような遺言を伝えました
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