デボーションメモ9月28日 キリストの愛を被って生きる

【時代背景】
今回は第2コリントを読みます。この書簡はマケドニアでパウロがコリント教会に当てた手紙の第2弾にあたります。コリント教会はどうも問題が多かった。第1コリントでは教会で起こる混乱を収めようと頭を悩ましているパウロの言葉が書かれている。

【本題】
コリント教会ではパウロが「にせ使徒」と呼ぶ人々がいた。11章4節では「別のイエスを述べ伝える」人々について言及しているが。グノーシスというオリエントで生まれた異端思想に由来しているのではないか。彼らはコリント教会に入り込んだことがあり、教会を惑わすほど弁舌と知識に優れていた。11章22節で「彼らはヘブル人ですか。私もそうです。」と言及されていることから、彼らの中にはヘブル人もいたことがわかる。
パウロは彼らを「私達と同じように誇るところがあるとみなされる機会を狙っている者」(11:12)と呼び、警戒しています。11章はパウロが自身の信仰について語ることで、彼らに対抗している。

そして11章17節では「これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者としてする思い切った自慢話」をするとパウロは語っている。

では知識も経験も豊富であり、かつヘブル人でもあるにせ使徒に対して、自分もマウントを取ってやろうとしているのか。確かにパウロはユダヤ人でありローマ市民であり、律法に対してはすごい知識がある。キリスト者になってからは伝道者として目覚ましい働きをした。彼はにせ使徒には劣らない経験と知識がある。強さに対して強さで対抗するのか。

しかしパウロは違う。彼の自慢は次のようなことだった。「川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、偽兄弟の難にあり、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、餓え乾き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。このような外から来ることの他に、日々私に押しかかるすべての教会への心遣いがあります。」具体的にどのようなトラブルがあったかは分からないが、パウロさんは相当災難にあってきた。でも、彼はここで自分の苦労話をしたいのではない。彼はこのような苦難を受けて、「心が激しくいたんだ」その弱さを誇っている。これは少し不思議なことではないでしょうか。

パウロは、「にせ使徒」に対し知識で圧倒することもできたのに、なぜパウロはそうしなかったのか。なぜなら彼の中にある弱さのほうが大事だったからである。パウロは12章9節で「主は 『私のめぐみは、あなたに十分である。私の力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」と語っている。私のちから、キリストの力は、弱さのうちに完全に現れるというのです。

それまで、神の力が弱さに結びつくことなどあり得ないことだった。律法を守るユダヤ人は、少なくとも自分の弱さが神のちからと結びつくことは想像できなかった。厳しい律法を守り通すことこそ信仰であった。ローマでは皇帝が神格化され、皇帝は祭司でもあった。ローマ帝国において神は政治権力と一体化していた。また商業と学問の中心地であったコリントにおいて、神の力が弱さと結びつくことは想像が難しかったのではないか。

今の私達の社会は、強さで成り立っているのではないか。現代社会における強さとは、市場で決められる価値の高さである。あなたの経験や能力や外見を指標に、あなたの価値が決まる。就活でも多くの学生が、自分の能力や経験を示して競い合う。市場における競争と価値決定が、私達の人生のなかで繰り返され、絶え間なく行われていく。そのような強さが私達の生きる社会の根底にある価値観である。しかしその強さの根底は果たして本当に盤石なのか。みんなが自分の弱さを隠して強い者のように振る舞い、弱い者は叩かれる。それは本当の強さなのか。本当のところ、この社会では誰もが「餓え乾き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいる」のではないか。

そのような現実の中において、キリストのちからが弱さのうちに現れる。パウロは、自分の弱さが表されることで、「キリストの力が私をおおう」と言っている。市場におけるあなたの価値は神様は微塵も目にとめない。ただあなたの弱さが完全に現れたところにおいて、キリストの力が覆いかぶさる。」この「覆いかぶさる」という表現は新共同訳では「うちに宿る」と訳されている。しかし、私は寒さを凌ぐための布のようである「覆いかぶさる」という表現のほうが好きだ。

神様は私達の偽りの強さの罪と現実を見通しておられる。それはパウロがコリント教会に手紙を書いていた時期から本質は変わっていない。しかし神様はあなたのその偽りの強さなど気にもとめない。そんなものは神にとって微塵も関係ないからだ。主はこう言っているのではないか。「おまえ達が取り繕うことのできない弱さをあらわにする時、餓え乾き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいる、そのような弱さの中にいるとき、私の力がお前を覆うだろう。」

ヨハネ福音書17章では、イエス様はこのように言っている。「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、私はあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを使わされたことを知りました。そして、私は彼らにあなたの御名を知らせました。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らのなかにあり、また私が彼らの中にいるためです。」私達に覆いかぶさるキリストの力とは愛である。私は愛をもって、寒さと餓えにあるあなたの上に覆いかぶさろう。なぜならイザヤ書にあるように「あなたは私の目には高価で尊いからだ。」あなたは神の子キリストが十字架につけられるほど価値のある存在だからだ。

この福音のメッセージはとても強力である。なぜならそれはこの世界を作られた神によって明かされる愛だから。この福音は、実は社会の価値観を根底からひっくり返すほどの威力を持っている。しかし、その力は私達の常識を超えて、わたしたちの弱さから現れる。




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