火のやうな
一冊のノートが遺された。
母がわたしの俳句をびっしりと書き写していた小さなノート。わたしには、それが母の詫び状のように思われた。
社交的で華やかな母にとって、不器用、無愛想、引っ込み思案のわたしはさぞかし物足りない娘だったことだろう。幼い頃から、母の「残念」には気がついていた。
アッコの娘にしてはパッとしないな、と面と向かって毒づく親戚がいた。まだ小学生の頃だ。驚いて固まってしまった。もちろん悲しかったが、この子はそうなのよ、そういう子なの、と変に開き直った母が今となってはちょっと面白い。
思えば母は、あなたには苛々することばっかりよ、と怒鳴りながら自分だけがスッキリしてしまう。そもそもそんなに教育熱心ではないので、こうしなさい、ああしなさいなどと面倒なことは言わない。良くも悪くも深追いしない。
叱られて泣いて、母も泣いて、それでお終い。雨の時は荒れる、あがればカラッと晴れる。そのうちにこちらも言い返せるようになり、おかげさまで打たれ強いふてぶてしい娘に自然と育った。
「残念」な子としての自己嫌悪は長くわたしの中に残ったが、自己否定にまで至ったことはただの一度もない。この子はこの子、そういう子、として育ててもらった。
結婚で早くに家を出てから、適度な距離感を保ちながら時間ばかりが流れていった。
良かったわね、俳句に出会えて。俳句結社に入り、拙句の掲載された俳誌のコピーを送ると、母はとても喜んでくれた。母のことを詠んだ句もあった。
萵苣ちぎる母は不在の日曜日
母はお出かけの多い人だった。まだ幼稚園の弟と二人でお留守番、ケチャップライスを作って弟に食べさせた‥そんな日のことを思いながら詠んだ。この句を含むわたしの連作が巻頭に選ばれ、母に報告できたことは唯一の親孝行になった。
まだ意識のある母と最後に会ったのは亡くなる二週間前だった。一日の殆どをベッドに横になって過ごしていた。東京に帰るわたしに、妙に清々しい笑顔でサッと手を差し出した。何となくこれが最後になるのだろうと思いながら母と握手をした。
母にもう拙句を見せることはできないし、母がノートの続きを書くこともない。熱心に一句一句を書き写してくれていた。
今とは違う母と娘の関係を夢想することもあったのではないか、ついつい行間を深読みしてしまう。
火のやうな母から生まれ水中花
句会に出した時、尊敬する女性の先輩が特選句に選んでくれた。その方はどこか母に似ているなといつも思っていたので、尚の事うれしかった。
わが師匠は、ちょっと俳句としてきれい過ぎるんじゃないかなー、との弁だった。
はい先生、わたしの母は美女でした。だからこれでいいんです。
紅玉や母と云ふ字は狭き部屋
筍に母の癖字の送り状
春禽や耳だけ固き母の骨
おとうとは寝息も母似春の雨
わが母の染みも形見の花衣
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
木野清瀬
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