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まだ夢の途中

ようするに1999会のQ体リーディングを観にきてね、というnoteです。

(という書き出しではじめたのですが時間がかかりすぎてチケットが完売してしまいました。たくさんのご予約、ほんとうにほんとうにありがとうございます…。せっかく書いたので意地で公開します。)

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ちょっと前に「断片的なものの社会学」という本を読みました。社会学者の岸政彦さんのエッセイ集で、書き下ろしも含めて17本のエッセイが収録されています。話題になっていたのはかなーり前ですが…。

とてもよかったのでお暇な方はぜひ

読んでいて、私はこういう言葉たちを必要としていたんだなって胸がくつくつとなるような本で、私がこれから生きる日々に大事に持っていたいと思いました。

でも1個だけ、どうしても、書いてあること全てに納得がいかなかった章がありまして。

それは『自分を差し出す』というタイトルのエッセイで、岸さんが教授を務める大学で出会った、アメリカでギタリストになるため大学を中退する学生の話から、私たちの人生って基本的には何も特別な価値などないくだらないもので、でも人生がくだらないからこそ彼のように人生を捨てる賭けができるのだ、というような、ざっくり言うとそんな感じの内容が書かれてました。賭けに勝てば「何ものかになれた人生」を手に入れることができ、負けたときには「何ものにもなれなかった人生」を差し出すのだと。

なんか他のところは、ずっと心をじんじんさせながら読んでたのに、この章だけずっとイライラしながら読んでました。私が今現在、岸さんの言うところの、何者かになるために人生を捨てた賭けをしてる人をやってるので、引っかかる部分が大きかったのだとは思うのですが。

岸さんに限らず、人生を捨てるとか捧げるとか賭けるとか、色んな人が言う、けど、私って人生を捨ててしまったんだろうか?

ここで言われてる「人生」は、本文を読むと明らかなんだけど、安定した職について安定した生活を営むことを指している。そういうものなんだろうか、なんの注釈もなく「人生」って言葉が使われる時に自分が選択しなかった生き方が名指されることって、けっこう悲しいんですね。まあでも確かに私は、より高い収入を安定して得られる可能性とか、世間一般(この言葉本当は誰のことを指してるんだかよく分かんないけどでも"世間一般"てなんかもう存在する、としか思えないから)から見てまともだと認めてもらえる可能性とかを捨てました。

けどそれでも私は、人生を捨ててしまったわけではないと思うんです。というか人生って、自分が過ごした時間の総体であって、それって捨てたり捧げたり賭けたり、できるものではないんじゃないでしょうか。その人が過ごした時間そのものが全てその人の人生であって、それは各人にべったりと張りついていて、ほんとうは誰も自分が過ごす時間を何かに渡すことなんてできない。

この『自分を差し出す』って章の最後のまとめみたいなとこで、「人生を捨てて」なにかに賭ける人が多ければ多いほど素晴らしい作品をつくり出す天才が多く生まれて文化生産の盛んなより良い社会になる、こういうことが誰かの救いになるわけではないけど、私たちの無意味な人生が自分には知り得ない遠く高いところで誰かにとって意味があるかもしれない、ってなことが書かれてて、なんかもう、最初から最後までうるせ〜〜〜な〜〜って思ってしまった。

一体自分は何にこんなに苛立っているのか、うまく言語化できないんですけど、私が演劇をやってるのはただ自分が自分であるために選択した生き方であって、ほんとうにただそれだけなので、他人からいちいちそういうよく分からない意味付けをされることは全力で拒絶したいと思いました。

さてこっからようやくQ体の話!

「解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話」通称「Q体」に登場する大学は、東京女子大学がモデルとなっています。アントニン・レーモンドはチェコ出身の建築家で、1919年に来日、多くの作品を日本に残しています。東京女子大学の校舎も彼の設計で、本館、チャペル、講堂などは文化庁の登録有形文化財に指定されています。

2009年に、初期のレーモンド建築の一部である旧体育館が、大学再開発のため解体されました。大学から再開発計画が発表されてから、同窓生を中心に反対運動が展開されましたが、運動は実を結びませんでした。そんな中、一人の学生が体育館の解体を惜しんで、論文を書きます。旧体育館の設計意図や、体育館が学校内で果たしていた役割について、修士論文とは別に必死で書き上げたそうです。Q体は、この出来事をモチーフにして書かれました。

彼女はこの学校の中で旧体育館がどのように機能するべく設計されたか、どのような役割を果たしているのかを研究して、論文にしたそうです。修士論文の担当教授にも内緒で。必死に旧体育館について書いたのだそうです。
これはとても美しい話だと私は思いました。とても美しい声の上げ方だと思いました。
彼女の行為によって、大学時代のふてくされていた自分が救われたようにも思えました。
そして戯曲を書きました。失われていくことへの人間からのささやかな抵抗をしめすために。彼女と、私と、そして何百人といたあの学校の女子学生たちのお話です。

戯曲デジタルアーカイブ https://playtextdigitalarchive.com/drama/detail/366
「解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話」に寄せたオノマさんのコメントより

私が演じる「哲学」という役は、この論文を書いた学生です。けれどQ体は、旧体育館を守るために論文を書いた学生の物語ではないし、むしろ彼女はぜんぜん物語上の中心人物ではありません。たしかに旧体育館は戯曲上の重要な要素ではあるのですが、戯曲としては、息吹と〇〇という人物を主軸にした、9人の女学生たちの群像劇のような構造になっており、哲学もあくまで登場人物の一人です。

でも実はそれが、私がQ体を好きな理由なんです。

Q体は決して"哲学が旧体育館保全運動を通して挫折と成長を経験する物語!"とかではなく、あの学校の女子学生たちの、彼女たちがあの学校で過ごした時間の、お話です。哲学が論文を書いたことは、Q体に登場する女の子たちが、友達との距離に悩んだり、恋をしたり、勉強をしたりしなかったりする、旧体育館が見守ってきた時間の流れの一つとしてそこにあります。

わたし哲学のすごく好きなセリフがあって。奔放という登場人物に、どうしてこんなこと(体育館を守る運動)をするのか、と問われて彼女はこう答えます。

哲学 好きなだけです
奔放 ……
哲学 あの建物が好きなだけ。完全に私情です。好きだから守りたいんです。それだけです。

それだけなんです。哲学が論文を書いたのは、何か崇高な目的があったりするわけじゃない、ただ旧体育館が好きで、その時そうせざるを得なかっただけなんです。それは例えば、友達を憧れと嫉妬の入り混じった気持ちで遠ざけてしまうことや、レポートの進捗がギリギリで徹夜をしてしまうことと、おんなじです。

Q体は詩情たっぷりの美しい言葉で書かれていますが、私はこの作品は実は、飾り気のないとてもまっすぐな戯曲だと思っています。目的や価値や物語から外れて、ただもうその時、そう在るしかなかった彼女たちに、何がしかの意味を付与することなくそのままをじっと見つめるような、この戯曲の眼差しが、私はとても好きなんです。

私は1999会でQ体がやりたい!ともうずーっと言ってるのですが、それはやっぱり何か大義があるわけじゃなくて、この戯曲が好きだし、1999会に集まってくれる俳優さんスタッフさんのことが好きで、この人たちと劇場でやるQ体はそれはそれは美しいだろうと思うからです。それだけです。

1999会として、昨年はオンラインでのリーディングと妄想の上演プランの制作を行い、今年はQ体の作者のオノマさんにお声がけいただいてのリーディング公演をやらせてもらうことになりました。少しずつ自分の夢に現実がついてきてくれている感じがして、本当に嬉しいです。

いつか必ず、劇場で。

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大変ありがたいことに、オノマリコフェスでのリーディングのチケットは完売したので、昨年のオンラインリーディングの際に制作したZINEの宣伝を貼っておきます!いつの日かの上演のための設定資料集というコンセプトで、スタッフさんたちの妄想のプランと、俳優たちのコメントが収録されています。ご購入いただいた方には、オンラインリーディングの記録映像も一緒にお送りいたします。

このZINEは会場でも販売しようと思っています。私の、私たちの夢が、色んな人のところに広がってってくれたら素敵だな。色んな人が1999会とQ体に出会ってくれたら嬉しいです。まずは来週末のリーディングの本番、良い時間をお届けできるよう頑張ります!

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