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初めての海外出張

実は、モスクワ駐在員として赴任する前に、一度だけ東南アジア市場に出張したことがあります。それまで海外出張どころか飛行機に乗るのも始めてなので、かなり緊張しました。

まず伊丹空港から、国内線で羽田に飛びます。飛行機はボーイング727でした。
少し揺れたのでやや気分が悪くなり、

「飛行機に向いてないのか!?」

と心配になりましたが、次の羽田発マニラ行き国際便の飛行機はDC8と言う4発のジェットエンジンが付いた大型機でこれはほとんど揺れず安心しました。
マニラ空港が、初めて踏んだ異国の地です。飛行機のタラップを降り始めるとズボンの裾から熱帯の暑い空気が流れ込んできます。まだ5月なのにこの熱さは異常だと思いました。
ズボンを穿いたままお風呂にずぶずぶと踏み込んでいくような感じです。
出迎えてくれた商社の人にそれを言うと、

「マニラは、4月5月が一番暑い乾季のピークです。」

と云われました。

タクロバンの薔薇 

其の頃の主力商品は、ナイロンフィラメント糸で、当時フィリピンでも合成繊維の加工工場が登場し始めていました。其の中でも大手の仮撚加工会社に挨拶に行き話が一段落したところで、中国系のフィリピン人である社長のリムさんが、

「明日、私が新しくオープンする百貨店の開所式なので、来ませんか?」

と誘ってくれました。
勿論お邪魔することになり、同行していた繊維商社の駐在員と出かけました。セレモニーなので暑いさなかに背広を着ました。現地の人たちは、バロンタガログというパイナップルの繊維で織った真っ白な長袖シャツを着ています。きれいに刺繍してありこれがフィリピンの正装で大統領に会うときでもこれでいいのだそうです。
マニラ市の中心部にオープンした新しい百貨店は「Good Earth Emporium」と言う名前です。おそらくマニラ市で初めての本格的百貨店開店ということで、開所式の主賓はイメルダ・マルコス大統領夫人という豪華版です。
彼女はレイテ島タクロバン市の出身で、「ミスレイテ」「ミスフィリピン」を獲得してマルコス下院議員と結婚しました。1965年、夫のフェルディナンド・マルコスが大統領に就任して2年目、37歳のファーストレディーは、若々しくスラリとした体型で正に「タクロバンの薔薇」とたたえられた美貌で其処に白い大輪の薔薇が咲いているようでした。
彼女は、この若い国がやる気満々の大統領の下で急速な経済発展を約束されているという気分を体現していました。
21年間続いたマルコス独裁体制が崩壊して、米軍機でハワイに夫と脱出したときのぶくぶく太った海千山千のおばさんの姿は想像も出来ませんでした。

「ドクトルジバゴ」のテーマが流れて・・・

マニラ出張は1ヶ月近く滞在したので、現地駐在の商社の人には大変お世話になり、夜は色々雰囲気のあるレストランに招待されました。
長らくスペインの植民地であったのでスペイン料理の店が多く、「カサ・ブランカ」「カサ・マルコス」「マドリッド」等々、料理も雰囲気もすばらしいものでした。
1965年に公開された「ドクトルジバゴ」と言う映画の主題曲「ラーラのテーマ」が大流行していて、レストランのバンドが盛んに其の曲を演奏していました。
マニラのレストラン・バーには、必ず生演奏のバンドが入っていましたが、当時、香港、シンガポール、バンコクなどの東南アジアのあらゆる夜の街にはフィリピンバンドが入っていました。もともとフィリピンの人たちは音楽的才能が豊かで、しかもコストが安いと言うことで当時の東南アジアの夜の街には、フィリピン・サウンドがいつも流れていました。

フィリピンは、まずスペイン人のマゼランが世界1周の途上立ち寄って、この地で原住民との抗争で殺された後、当時の世界帝国であったスペインの植民地になります。19世紀末の米西戦争の結果、アメリカが勝って、フィリピンの統治権がアメリカに移ります。
この国は、スペイン・アメリカの長い植民地時代をへて第2次世界大戦後の1946年に独立しますが、私が出張した頃はまだ植民地としての退廃がまだ色濃く残っていました。

何故か、突然思いもよらぬ、社長の呼び出し!!

マニラに出張して20日ほど過ぎたとき、私の滞在するホテルに当社の香港主席駐在員から電話がありました。
あの飢狼のような風貌の部長が、当社社長の鞄持ちでマニラに出張で来ていて、香港からも主席駐在員が駆けつけていると言うのです。

「石井君、ご苦労さま、今から「マニラホテル」に来てください。森社長も君と会いたいと言っておられます。」
 「判りました直ぐ行きます。」

マニラホテルは、フィリピンで一番格式の高いホテルです。タクシーに乗って、 「マニラホテル・プリーズ!」と言えば問題なく運んでくれます。
指定された部屋に恐る恐る伺候すると、森社長と輸出部長、香港主席駐在の3人が、ウイスキーのボトルを囲んでなにやら談笑していました。

「石井、参りました!」

と言うと、

「そんなに硬くならんでいいからこちらに来て飲みなさい。酒は強いんだろう。」

と言いつつ、ウイスキーを注ぎ始めました。
森社長は、三井物産のニューヨーク駐在時代から酒豪として聞こえていて、宴会などで、何か余興でもと言われると、ジョニ黒の新しいボトルを開けさせて、一気に全部飲んで

「不器用でこれぐらいしか芸が無くて・・」

と嘯いて周囲を唖然とさせていたと言う話は有名です。

 「人に酒を注ぐときに英語で、何と言うか知っているかね?」

「全く知りません。」
「Say whenと言いながらつぐんだ。其のときなんと応えるか判るかね?」
 「判りません。」
「丁度いい加減に入ったところで、 When! と言うのだよ。黙っていると擦り切り一杯注がれてしまうんだ。」

などと、早速お酒の作法を仕込まれます。
結局、幹部社員だけでは退屈なので、新米が初めて海外出張に来ていると聞いて酒の肴に呼ばれたらしいのです。
お酒が回ってきて、と言うよりその場の4人はボトル1本ぐらいは一人でも大丈夫と言う酒豪ぞろいだったので、淡々とボトルは空いていきました。私は酔うどころの話ではなく、所謂、酒を殺して飲んでいました。

「ビジネスの世界には、善い人というのはいないんだ。居るのはアホとワルの2種類だが、アホと組んで仕事をすればまず失敗する、ワルとしか組めないが、油断すると足をすくわれる。と言ってこちらから騙してやればモンキービジネスと云われてしまう。ええか! 騙すな、騙されるな!

といった具合で、しごきは、真夜中まで続きました。
翌日、ご一行様は、機嫌よく香港に向かって出発し、私は炎天下で客先周りを再開しました。今にして思えば、入社3年目の若造と社長が旅先で酒を飲むなんて会社は、どこにも無いような気がします。

それから丁度1年後、モスクワ駐在員の辞令が出ました。
あの時、うっかり社長に何か言ったのかどうか、幾ら考えても思い出せません。

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