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絵の良さ問題 -ゴッホの絵から-

ゴッホの絵が良すぎる・・・。

Instagramで作品見かけたらほぼ100パーセントいいね押してます。貴方の絵は素晴らしい。この想い、ゴッホに届け。。という意図でいいねしてます。あんたは凄いわ、、という気持ちで。勝者へ賛辞を送るように。手を合わせて拝むように、いいね押してます。

最近、絵画教室をやっていることもあって、絵に対して素朴に良いとか悪いとか思わないようにして口にも出さないように気をつけているのですが、ゴッホの絵については見た瞬間反射的に良いと感じてしまう癖が付いてきた。視野が狭くてよく無い傾向とも言える。原因は、作品そのものにセンスがあるとか、絵が単に上手いからとかではなく、彼のやっていることが今の僕の絵画への興味関心とリンクし過ぎているからです。絵の中の全てがデッサンによって虚構なく成り立っている、その制作プロセスの特異性に関心しているのです。

つまりは、作品の見た目の話では無くやり方の話ということです。だってゴッホの絵って決して上手くは無い絵ですから。むしろ下手な部分がたくさんある。しかしそんなことは本来絵の良さとは100パーセント関係がないことです。作品というものが個人の作った芸術である限り、手段と目的こそが最も重要で価値があります。そういった意味で、画家としての彼の仕事は新しく、それでいて基礎的で、絵を描く人間にとって意義があり、大変尊敬できるものなのです。

さっき僕は絵画教室をやっているから、絵の良い悪いを口に出さないようにしていると言いました。その意味を説明したい。絵の良い悪いを絵の上手い下手と言い換えても良い。いや、上手さは絵をコントロールする上で大事だから、やっぱ良い悪いにしようかな。まぁどちらでも大差ないけれど、要は、作品の見栄えを問題にしない、ということです。

絵の見た目が良いとか悪いとか、そういう絵の見栄えの話は、作品の価値にとって無関係であるし、美術教育においても悪影響でするべきではない。

なぜか?
一言で言うと、作者の存在を無視した勝手な見方だからです。


例えば、ゴッホの絵に「星月夜」という有名なものがあります。夜空をうねるような連続的なタッチを強調して描いた作品です。見た目だけの話をすれば、明るいブルーの色彩は美しく特徴的なタッチは装飾文様のようで綺麗に見えます。

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しかし、ゴッホはただ夜空を綺麗な色と模様で描きたかったのでしょうか?

結論から言ってそれは違うと思います。このうねるような連続的なタッチは、きっと明確な目的を持っています。それは一枚の絵の見た目だけを何となく眺めていてもわかりません。彼の過去の作品や、同時代の他の作家の作品、未来の作品、作品以外の物事、様々な証拠による裏付けが必要です。時には経験、自分で絵を描いてみることも必要です。それらを元に、どんな知恵によって絵が成り立っているか?自分の頭で考えることが必要です。

ゴッホの絵について、僕がわかっていること。それは、手ざわりを伝える生きたメディアだということです。

まず前提として。モネなど他の印象派は、絵画に瞬間性を写すべく映像的にモチーフを捉えて筆触分割を開発しましたが、光を重視したために手触りの実感が損なわれるという問題が起きました。しかしゴッホは印象派の筆触分解に学びつつ、全く異なる方法を生み出します。それは連続的な短い色彩のタッチを入れつつも、同時に、油絵の具の粘性を活かして、画面上でモチーフをなぞって引っ掻いて傷を残す、という方法です。この方法によって色彩を光として重視するあまり失われたモチーフの実在を、タッチの手ざわりでキャンバスにしっかりとくっ付けることに成功しています。

通常、このタッチの手ざわりは静物や人物、自画像など、実際に手で触れることができるものに適用されるはずですが、ゴッホはこの画家の筆の手ざわりのタッチを現実世界の目に見える全てのものに用いました。すべてを自分の手でデッサンしキャンバスに残す。彼のひたむきな、偉大な画業の為せる技だと思います。

タッチの手ざわりによって絵に実在を与える。草も木も街も山も空も、すべてをデッサンしてなぞり、引っ掻き、スケッチ=記録する。絵をモチーフや風景そのものに似せるのではなく、実感の記憶を絵に留める。そして、それゆえに絵と画家の人生が次第に密接に同期していく。ドラマチックに。


葦ペンによるデッサン↓

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陰影ではなく、手ざわりが重視されています。タッチによって実感を説明し、モチーフに感情を与えています。風が吹けば雲はうねり線もうねる、木々は騒いでうごめく。日差しは点々、チカチカと眩しい。デッサンが人間の知覚を偽りなく表しています。

星月夜の話に戻ります。

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すごい。すべて、隙のない、デッサンのみ!!

星月夜における、夜空のうねるようなタッチは、ゴッホの手ざわりのタッチが行き着いた頂点、マスターピースと言えるでしょう。本来は何もモチーフなんて無い、光すらない闇の空間であるはずの夜空ですが、人間は風や空気を肌で捉えることができます。時にはわずかな星の光を目に眩しく感じることもあるでしょう。月は大きく、こちらをじっと見ている。装飾的だなんてとんでもない!リアリティーそのもの。ありえない非写実的な表現であるけれど、タッチを目で追い絵肌をなぞる過程で、ゴッホが見て感じた夜空のドラマをリアルに体感できるわけです。星空の下の風景だって。木々は夜の闇でも息づき、背を伸ばす。反対に街並みは小さく萎んで、人間は眠る。人間生活と自然世界。その狭間に立つ画家一人。そういった実感を、油絵の具の堅いタッチの手ざわりで克明に、正確に、正々堂々描き出しているのが、星月夜という作品です。僕はそういう理解をしています。そして、この作品でのゴッホの仕事を心から尊敬しています。

以上が僕の見解です。これはピュアな絵描きとしての見方です。書いててちょっと気恥ずかしくなってきた。美術やってますって感じの人からは、そんな当たり前に見ればわかることわざわざ言わんでもええがな、という意見が出るかもしれません。しかし、僕は一番重要なことだと思いますよ。それだけでもいいくらい。僕としては。

もちろん他にも色々なことが言えるでしょう。また、そもそもゴッホがなぜこのタッチになったか?という部分は謎めいているし、まだまだ追わなくてはいけません。何か新しい説が立てば、作品の意義も変わってくるだろうから、いつも見続けて考えていく必要があります。


最初の話に戻ります。

作品の見栄えはどうでもいいという話。

表現の何故?という部分を無視して、作者の手段と目的について目を向けず、成果物の見栄えだけを私的に眺めることは、作品に込められた知恵を無駄にする行為に他なりません。

作品が良ければそれでいい=作品至上主義は、根拠が曖昧であり、誰のためにもなりません。

美術教育における作品至上主義批判。

僕は言いたい。図画工作の授業。先生は子どもの作品の見栄えを気にしすぎです。大人が見栄えを気にするから、子供はもっと気にしている。自由にやれと言われたのに、上手い下手が問題になる。どうして?先生も答えられない。だから皆訳がわからなくなる。勉強でありトレーニングなんだから、何を目的にどう実践するか、それを大事にしたらいいのに。自分がやりたいことを見つけ、そのための方法を学び、やったことが自分に皆に伝わるか確かめる。これが基本なのではないか。展覧会は、その後で良いのではないか。壁に貼り出すために作っているわけでもあるまいし。第一に、本人にとって作者にとって有意義な時間であってほしい、美術のためではなくまず子どものために、そう願います。

美術業界における作品至上主義批判。

僕は思う。作家に対して。この表現、この色、このタッチ、本当に要るの?これは、貴方が発明したものなの?そうでないなら、何の使命があってやっているの?これもあった方が見栄えが良くなるから、アレも入れよう、コレも押さえとかなきゃ、で、加点するために入れてるだけじゃないの?人から点貰って集めて、それで何の知恵があるというの?加点方式の優等生的作品に対して、僕は思います。そしてそれを取り巻く人たち。あまりにもゲームになっていないか?絵画なんて特に古いスタイルで、今更技術革新も何もないわけだから、新しい知恵を与えないと、一体何の意味があるのか。本当に死んでしまいますよ、社会的に。いつも僕は思っています。自戒を込めて。


ちょっと最後だけ口が悪くなってしまいました。

本当の意味での絵の良さについて、常に考えながら、絵画教室や作品で、僕は取り組んでいきます。

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