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僕が絵を見る時、

井田幸昌さんの個展がカイカイキキギャラリーで開催されています。

こちら。

井田さんは東京藝大出身の超・新進気鋭の画家。直接の接点は何にも無いのですが僕と同じ90年生まれで、何か意識してしまう。90年生まれの作家は皆んな意識しています。井田さんの作品はInstagramでたくさん見られます。ご本人のキャラクターも面白いです。これまで肖像画を描いていた井田さんが、今回は風景をテーマに大作を描いています。個展は大盛況で、即完売だったそうですが・・・・

僕は井田さんの作品からは、絵画としての「画面」のユニークさを感じることができませんでした。ただの塗料にしか見えませんでした。色彩やタッチの使用にオリジナリティが、意味が感じられませんでした。コンセプトも、内容がよくわかりませんでした。以前の肖像画の方ならわかります。instagramで拝見している限りでは、ですが。何か見落としているはずで、ずっと考えていますが、僕の頭では何がポイントなのかいまいちハッキリしません。

僕は良い悪いの話がしたいわけではありません。作品の意味がわからない、と言っているだけです。作品の意味と、作品の良し悪し=出来栄えや、クオリティは別問題です。

なぜ突然こんなことを言い出すのか?

正直、同世代の作家に対して、アレコレ勝手に感想を言うのはあんまりやりたくない。なぜなら自分も作家の端くれであるから、ただの観客として世間話はできないわけです。批判をすると、じゃあお前は良い作品作っているのか?と問われてしまいます。売れている人への妬み・僻みになってしまうし、結果的に。それは当然のことですよ。だから、作家が他の作家を批評、特に批判をするのってデメリットが大きい。単に自分のイメージが悪くなるし、売り辛くなるでしょ。それに言葉もあまりうまくないし。

だから作品の批評は批評家に任せるべきで、作家の仕事ではない、んですが、何かあまりにもまともな言葉を耳にしないので、書いておくことにしました。というか、変に無視されてません?その状況よくないでしょ。褒めるにしろ、もっと言葉があるはずでしょ?

僕は作家としては雑魚も雑魚ですけど、今まで絵について取り組んできた上で井田さんの作品を見て感じたことを正直に書きましたよ?

世の中には無数の作家がいて、プロアマ問わず、いつもどこかで作品が作られ、そして大なり小なり展覧会が催されています。でも、その一つ一つ全てに目が向けられることはありません。しかし例え注目されなくても、興味深い仕事をしている人はいます。いるはずなんだけど、余程のきっかけが無い限り、それが言語化され共有されることはありません。ですから、注目されているのなら、なおさら、様々な視点から作品は解明されるべきなんです。そうでなければ何の意味があるのですか?作品について、何でもいいからクリアな言葉が欲しいんです。


そんなモヤモヤを抱いていた時、長谷川繁さんと梅津庸一さんの対談を発見し、読みました。長谷川さんの作品を梅津さんは画家の視点から分析されていて、ちょっと頭がスッキリしました。

こちら。(美術手帖のページ)

長谷川さんの作品は、絵画としてのユニークさを自分なりに追求していて、画家の目から見れば楽しい作品になっている。脱構築的な作品。しかし何が伝えたいのだろう?と疑問も湧く。しかしそんなことはきっと問題にしていないのでしょう。

対談の後半は、良い絵はどこにある?という話で、お二人がバトっている。しかし思うに、良い絵、面白い絵、という視点は僕は危険だと思います。最近ずっと言っているけれど、絵画やアートは良し悪しで語るべきでは無いと思います。なぜならば、作者がつくった意味を蔑ろにする行為だからです。

確かに長谷川さんの絵は絵画として見れば面白い。特に絵を知っている画家にはそれがよく伝わるし、何より長谷川さん自身もそういう思いでそう見えるように作っている。そこは理解できます。しかし梅津さんは、地方の公民館や市民ギャラリーに展示している作品、狭い美術業界の外にこそ真に面白い作品があると言う。確かに面白い作品はあるだろう。しかしその面白さって、僕らが勝手にそう見ているだけじゃないんですか?作家本人がその面白さを理解し、主体的に作った結果の答えですか?違うと思いますよ。違うならば、本当の答えはもっと別のところにあるんじゃないですか。それこそ絵の外見とは全く関係ないところに、伝えたいことはあるんじゃないですか。

図工の時間に例えて考えるとわかりやすい。自分なりに作った作品の見た目の一部分、思わぬところを先生が褒めてくれた。なぜ褒められたのかはわからないけれど、評価されるから次もがんばろう。と思って、そのスタイルを無意識に反復し出す。みんなもやっているから。逆にみんながやっていないから、もあり得る。それが続くと次第に何のために作るのか、思い出せなくなってくるのです。

僕はこれを美術のラッキーパンチ問題と呼んでいます。ラッキーパンチを褒めると生徒に悪影響を及ぼすことがある。だから僕の教室では出来栄えを褒めることはあまりしません。なぜそう作るのか、意味を考えてもらうように意識してやっています。

梅津さんが作品の外見だけを見ているとは思いません。実際に作家さんたちと交流されていて、展示も企画されている。深く分析し理解されていると思います。その仕事は正確だと思います。しかしその過程で、作者の思いが遠いところに置かれてしまっているのではと、勝手に危惧しています。


後半、また批判みたいになってしまいましたが、読んでいて気持ちのいい対談でした。

良い絵とは何か?どこにある?
僕の答えは、良い悪いで語るべきではない。ということです。
問題は自分が何を感じるか、作者が何を伝えるか、だと思います。

井田さんの作品の意味がわからなかったのは、僕が理解できなかったというだけのことです。むしろ、わかりたいと思っている。だから書いています。僕がわからないからといって、作品が悪いという話にはなりません。逆に、僕が井田さんの作品から絵画としての意味を感じたとしても、作品が良いということにはならないんです。絵画として面白い、ユニークな作品なんてそこら辺に溢れてますよ。悪い絵なんてそうそう描けない、というのは法貴先生の言葉でしたね。どんな絵にも探せば面白みはある。問題は絵画を使って、何を伝えるか、ですよ。心に何か大事な感情が響いた時に、良いと感じるんですよ。少なくとも、僕にとってはそれだけです。

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