さちよさんとの合作の話

奥田さちよさんとの合作です。2012年、4年前のみらブルの時の絵です。丸つながりで、小学校で展示しようと思います。

この絵はですね、なんで丸だったっけ?丸というのは僕のアイディアだったと思います。その時も丸、円が描きたかったんですよね。でもこの時は、球体のボールからの発想ではなくて、ワープホールのような、光の輪のイメージだった。光=無を表現したかったのだと思う、当時。ミラージュアイ、スターライト、ホーリーライト、とかの延長ですね。無、何も書いてない白場をボリュームのある光として想像するってことです。

だから、基本的に円の中は光だから、何も描かないというやり方なんですが、合作だからそうはいかず、、、さちよさんの描いた絵を僕のターンで消す、という攻防が繰り広げられました。ほんとに白で全部消してる。周りの部分とか。かなりひどいです。ギャラリーにこもって夜遅くまで描いてたなぁ。なつかしい。普通の合作って、即興的に二人で描いていって絵が混ざり合って、でも分断されていて、ツギハギの絵が出来る、というものだと思うんです。中心が複数ある絵ができる。しかしこの絵には中心がまるで無いような感じがします。なぜこんなやり方をしたのか、、謎ですね。まったく二人で描く合作という意味を考えていない。。相手のことを考えてなさすぎる…たぶんその時僕が円を描きたかったからなのでしょうが………

この円、コンパスの要領で描いてます。つまり中心から紐を伸ばしてその先に筆をくくりつけて回して描いてるわけです。フリーハンドではありません。まず最初にそういうやり方で円を描きました。そこから即興的に描いていったわけです。で、乱れてきたら消して、また円をぐるっと描く。また描く、また消す、円を描く、、そんな風につくりました。油絵です。油だから乾かないわけです。3日ほど?で描いたような。絵の具が乾いてない上から円を描くと下の絵がぐちゃぐちゃに混ざって、消されて円になるわけです。そこが見どころですね。

今は、紐は使わずに、体をコンパスにして円を描いています。道具を使っても使わなくても大して変わらない、同じじゃないか?という考えになってきたからです。神経質な絵は瞬間的には美しいけど、、例えば土に埋めて十年後に掘り出しても美しい作品にならないだろうか?と思うようになった。汚れても、誰かが間違って上から描いても、破れても。この世から存在が消えてしまっても。それでも変わらずきれいな絵。今はそんな気持ちで描いています。大らかさが大事なんだと思います。あの時の合作の絵って、そういう部分をさちよさんが担っていたような気がする。僕は割と神経質で、即興的に描くにしてもターン制で短い時間に集中して描くわけです。それこそ書道みたいに、止め、はらい、で描く。2度書き厳禁です。しかし苦労して作っても均衡ってすぐに崩れちゃいますよ。些細なことで。それに人の心は移ろいやすい。だから、むしろそのあるがままを受け入れることでより完璧な絵になるんじゃないか?いまはそんな考えになってきました。つまり、ゆるさ、のようなもの。積極的に大雑把にやること。自分への戒めとして、こだわらないこと、これを意識してやっています。

円の厳密さと、ゆるいドローイングの均衡、はたまた不均衡、、そんなせめぎ合いの絵ですね。いま見返すと。円の、光の輪のその先は無への解脱か?衣服を脱ぎ捨てて、言葉も捨てて、円の中を突き進む、重さのない光に身を投じる、、、ワープホールの絵です。

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