リズミカルな絵たち

いる」のときの作品です。

画用紙に色鉛筆で描いて切り取って、描いて切り取って、あとから台紙に貼り付けています。金縁と、銀縁に分けられています。

リズミカルな絵たち。こっちは切り取った絵を貼ってから描き加えています。

黄緑の上の絵。これは切った絵を絵の具で塗ったキャンバスの上に貼り付けています。

メインの作品。これも切った絵を青く塗ったキャンバスに乗せてからまたチョキチョキ形を切り取っています。キスの絵です。

普通、紙やキャンバスは四角いから、何か絵を描いてもそれ以外の部分が出来ます。四角の枠の中全部を均等な力で支える、張力を持たせるのが絵画のやり方です。僕の頭は意外に固く、堅いからこそ、こんなやり方に行ってしまう。絵画をそもそも知らなければ、こんなやり方はあえて取らないはずです。言い方を変えれば、絵画のフレームを意識しなければ別にこんな風にあえて切り取らなくても初めから四角い画面に「絵」だけを描けるはずなんです。一見、自由なスタイルに見えますが、絵画の不自由さから逃れるための苦肉の策なんです。

一見、自由に見えるやり方だけど、実は不自由さそのものから来ている、そういう表現は往々にしてあります。例えば以前学部生のときにインスタレーションでボロボロの模造紙に絵を描いて壁に貼ってさらに色んな絵や素材を貼り付けたり床にゴミを転がしたりして絵を見せたことがありました。一見、捉えどころのない自由さを感じましたが、完全に絵画のやり方がベースになっています。脱構築的なやり方は本当に好きではない。創造とは縁がなく、あまり意味のないことに思えます。

もっと突き抜けたことがしたいといつも願っています。

創造とはいったい何であるのか、実は僕はあんまりわかっていません。僕は創造的な人間ではないと思っています。ものをつくる、ということを黙々とできる人間ではないんです。創造的な人たちは本当に尊敬します。

僕は自分のことを「作家」だとあんまり思っていません。。なぜなら特にこれといって優れた技術を持っていたり、創造的な「もの」を作る能力があるわけでもない。新しいことをしようとも思いませんし、自分が出来るとも思いません。自分のことをすごいとは思わない。普通作家というものは、自分のセンスに自信があって、世のため人のために作品をつくるわけです。僕もそうでありたいけれど、僕はただ自分が解放されるために色々策を講じてやっている、というふしがある。

これも「いる」のときの作品。スケッチブックの絵を切り取って額装しています。奥の草むらの絵は美大に入って最初の授業で描いた絵。

才能がなくても、技術や自信がなくても、やっぱりそれでも僕は創造的でありたいと思います。創造的であるとは、何者でもないということだと思います。最近、手塚治虫の「火の鳥」をまた読み返しました。本当に創造的な仕事をしていると改めて思いました。手塚治虫が描いていなくても誰がやっても「火の鳥」の本質的な部分は変わらないと思います。ストーリーにすごく広がりがある。時代を超えて普遍的なんです。

僕は僕のやり方で、創造的なことができればと思います。

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