コンビニと絵

東京大学の食堂に飾られていた宇佐美圭司さんの絵の所在が、改修工事の後に行方不明になっているらしい。岡崎乾二郎さんのツイートで知りました。どうやら「処分」されたそうです。処分ということが、本当に廃棄物として処分されたということなのかも、まだわかっていません。なぜ、処分されてしまったのかも不明です。このことについて、徐々に批判の声が上がっています。

個人的に、僕はそんなに驚きはしませんでした。直感的に、まあそういうこともあるだろうな、と思ってしまいました。私自身は、絵はほとんど一切捨てるようなことはしません。人の絵はもちろん、落書きやメモ書きの類でも何でも保存しています。しかしこの社会に生きていれば、古いものを捨て、壊し、新しく作っては壊し、また作って捨てて、の繰り返し、猛スピードでそういうことが日々起きています。東京オリンピックのあれこれを見てもそうです。いやそんな大きな事業とまでいかなくても、古い家々を壊してホテルやビルをつくる。もっと小さなことだって。全国どこでも同じコンビニがあるじゃないですか。そこでみんな同じものを買って食べたり。そしてゴミは捨てる。余分なものはどんどんなくして、新しくあることが大事、見栄えを良くする。すぐに古くなって捨ててまた作り変える。小さなものから大きなものまで。つまり消費社会ですよ。大量消費社会。いつから、誰のせいでこうなった?アダムとイヴの林檎。始まったらもう止まらない。僕らは捨て続ける運命の中にある。

宇佐美さんの絵の事件とは、まーったく、無関係な話を今、しています。実際関係あるのは、作品の管理がどうなっていたのか、そういう具体的な話だけだと思います。僕はそこについては何とも思わないし何も言うことがない、無関係です。ただ、この社会の運命について、悲しさを感じます。といっても、コンビニで毎日飯食って、服や、ものを買い、その都度何かを捨てている、そんなクリエイティブから程遠い消費行動をしまくっている僕がどうこう言えることではないんだけど。うん、社会の運命というか、僕自身の運命。だから、宇佐美さんの絵を処分してしまったのは、僕でもあるわけだ。全然、間違ってはいない。紙一重だよ。立場が違えば、その立場にいたら間違いなく捨てている。新しい何かを買ったり発注して作るために。

フジタは自分の着る服から家具から全て手作りしていたらしい。彼こそ本当のアーティストだ。手作り。自分の手で作る?手作り、作品、とか強く言えば、レディメイドと批判される。絵だって買った絵の具でやっている。ただの消費絵画じゃないか!じゃあどうする。。。。僕らのこの社会は、本当に創造的なのだろうか?模造品ばかりで成り立っている気がしてくるよ。テレビなんか見ていたら。この国のニュースは。何もかも輸入品。買ったものばかり。言葉も思想も。だからすぐに捨てられる。


僕の靴。一足しかない。

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