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Arca / Kick から見える世界

12月3日、Arcaが昨年の「KiCk i」に続く2〜5を同時リリースし、遂にというか早くも「Kick」シリーズを完結させた。

先行リリース数曲を聴いた時は、これまでArcaを聴き込んできた自分としてはそんなに新しさを感じなかったし、聴き方もイマイチ分からなかった。 

しかし11月30日から始まったドロップラッシュを追い続けながら1〜5を通しで聴くと、 これは単なる曲や歌をまとめたものではなく、全体で一つのKickサーガであり、それぞれのアルバムはシークエンスを構成する役割を持っていることが段々分かってきた。

「Kick」は、Arcaがトランジション後に発表した1時間のシングル「@@@@@」の世界観をアルバム単位に切り分けて作品化したようなものだ。つまり一個ずつの曲や歌はあるのだが、それらはArcaの感覚の異なる一部分に過ぎず、単発でリピしていてもArcaという人間はほとんど理解できない。アルバムは一つの時空におけるドラマをまとめたものであり、一連のアルバム群は例えるなら映画のサウンドトラックのような形式で、Arcaという世界観をアルバムワークによって何重にも表現しようとするものだった。

そして、もっと言えば、このアートワークはその構造からも分かるように、単に良い「音楽」を作ろうとするものではなく、音楽によってより良い「世界」を表現しようとするものだった。

 

Arcaが作り上げた「世界」とは何なのか?

 

「Kick」リリース時のArcaのコメントが熱くてすごく良いのだが、特に「Electra Rex」についての言及が素晴らしい。

 

  

「”Electra Rex” は、一般的に知られている、フロイトが提唱したエディプス・コンプレックス(男の子が母親に性愛感情をいだき,父親に嫉妬する無意識の葛藤感情)の考え方を参考にして、新たなアーキタイプを提案しています。エレクトラ・コンプレックス(女の子のエディプス・コンプレックス)は、母を殺し、知らず知らずのうちに父と愛し合うという二律背反を想定しています。 そこで私は、何世代にも渡る盲目の悲劇を繰り返さないように、ノンバイナリーの性心理物語を初めて提案します。”Electra Rex” は、Oedipus RexとElectraの名前を統合したものです。”Electra Rex” は、両親を殺し、自分自身とセックスし、生きることを選びます。」
– Arca

 

僕がまず驚いたのは、音楽を通してアーキタイプを提案したい、人々の意識を変えていきたい、という点だ。Arcaが望むのは社会変革であり、その延長線上に「Kick」というアルバムが存在していたのだ。どこまで信じるべきなのか、ただ、僕はArcaは本気だと思う。もはや単に音楽を作っている人を超えていると感じた。安っぽい言葉だけども、彼女は本当の意味でアーティストだ。

「両親を殺す」という穏やかではない言葉があるが、これはクィア(性的少数者)の者ならば一度は共感したことのあるアイディアではないか?これは実際に親を殺すというお話では勿論無くて、比喩であり、両親と同じ生き方を選べないという強い意志を表現するものだ。

つまるところは、男女の性愛を拒否すること。自分の手で愛の物語を描き、それを大事にすること。オリジナルでいること。

しかし、それは理想論であり、結局は同性愛だろうとそれ以外だろうと、性愛というものは存在する。人がセックスし続ける限り、女役割男役割という概念からは逃れることは出来ないのではないか?という苦悩が常に付きまとう。

なぜそれが苦悩なのか?これはたぶん、クィアの一部の者しか理解できない感覚だと思う。少なくとも僕にとっては、ある限定的な意味でセックスは罪であり、なぜか?と問われれば、それは私の自由意志ではないから。という答えなのだ。

 

Arcaは昨年の「KiCk i」リリース時にすでにエレクトラ・レックスについて言及していた。

──エレクトラ・レックスとは?
「私の分身のひとり。エディプス・コンプレックスとエレクトラ・コンプレックスがあるけれど、そのふたつを両方持ち合わせているひとには会ったことがない。私が提唱するエレクトラ・レックスの神話は、彼女が母親と父親を殺して、自分自身とセックスした、というもの。それがエレクトラ・レックスの始まり。」
– Arca

 

エレクトラ・レックスは神話であり、夢の中の新たな自分。性愛のしがらみから解き放たれた人生への希求。

要するに、どこにもない本当の美の探究。

赤色が好きか?青色が好きか?その選択すら性愛によって左右される。すべて勝手に自由意志だと思い込んでいただけ。

エレクトラ・レックスは男にも女にもならない。男も女も好きにならない。だからまったく自由に美しいものと触れ合う=セックスすることができる。貪欲に!

 

我々はエレクトラ・レックスのような存在に近づくことが出来るのだろうか?

 

追記:Arcaが提唱するエレクトラ・レックスについて、友人と話した際に違う視点があって面白かった。彼は男女の性愛に限定せず、家父長制や硬直した社会制度への反骨に感じたと話していた。家族という在り方の変革を迫るものでもあるかもしれない。確かにそう捉えることも出来る。人種や国家、家族、言語、宗教、人を縛るものは多すぎる。Arcaの言葉は、僕が思う以上に、クィアの人々に限らず、より多くの人々に刺さるものなのかもしれない。

 

Arcaは矛盾を抱えている。彼女はノンバイナリーのトランス女性であり、ゲイという過去も持ち合わせている。エレクトラ・レックスは、彼女の矛盾から生まれたキャラクターで、彼女の審美眼を具現化したものだ。

エレクトラ・レックスが作り出すアートは、ひとつの価値観では測ることが出来ない。それは多様な空間であり、ある時はレゲトンの熱を持ったダンスミュージック(ii)、ある時は人間を超えたサイボーグの狂った宴(iii)、といった具合に変化して止まることがない。

「Kick」シリーズを聴いていると、異なる時空を旅するような感覚になる。高揚感や、怒り、喜びや悲しみ、様々な感情を伴って。

その中でも、僕が個人的に好きなのは「kick iiii」で感じたファンタジーのような幻想、優しさに溢れる癒しの世界だ。

Arcaの音楽を聴いて人間的な幸せ、喜びを心から感じたのは初めてかもしれない。Arca流にギターを弾き語りした穏やかすぎる曲もあり、Arcaがこんな一面も見せてくれたことが嬉しくて、感動した。思うに、「ii」「iii」を経ないと「iiii」は出来なかったのだろうと思う。ものすごく回り道して、きれいなもの、美しい景色を表現している。でもそうするしか方法が無かったのだと思う。「iiii」を聴いていると僕のような人間でも世界に対して優しくなれそうな気がして、希望が持てる。

 

 

最後にドロップされたボーナスアルバム的な「iiiii」ではピアノの旋律が主体になり、Arcaの加工のされていない肉声も戻ってくる。坂本龍一がArcaを「DIVA」と語り、共に「Mutant Faith」を詠った、その後で。

最後のアルバムを貫く感情は、生きる儚さ、悲哀であり、これまでのArcaの楽曲をArca足らしめてきた最も根源的なパーツだ。ファーストの「Zen」でも「Mutant」でも、やたらと切ない旋律が挟み込まれてきた。どれだけ実験的なリズムやビートを作っても、絶対に泣けるところを押さえてくる。

例えば絵を描くのに没頭した夜、ふと我に帰り、何も作れていない気がしてくる。何かが足りない。どれだけ求めても、結局何も得られないんじゃないか?そんな疑念が湧いてくる。誰でも絶望することはあると思う。いつでも悲しくなれるのが人間であり、悲しみはいつも美しいと感じる。

 

 

 

長々と書いてしまったけど、Arca、仕事しすぎじゃないか?
アルバム4枚同時リリースってやった人いるんだろつか?

次元が違うと感じる。
本当にポストヒューマンなのかもしれない。

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