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名もなきモノ

ここ最近考えていることを書き流してまとめていきます。


匿名性についての雑記から

アーティストがネット上で作品を発表することはごく普通、もはや当たり前になった。その時に何が問題になるのか、実は今まであまり意識出来ていなかったのだが、最近になってそれは「名前」だったのではないか、と考えられるようになった。

そう考えるようになったきっかけがある。
一つは、NFTやメタバースといったIT革新への興味だ。実際にNFTを作りたいとかメタバースで遊びたいとかそういった興味では無く、NFTなどの単なる技術が実際には社会にとってどういう意味を持つのか?運用のされ方への関心だった。色々と自分なりに調べてみると、「クリプトアナーキズム」という思想に辿り着いた。

「クリプトアナーキズム」は1992年にアメリカ合衆国のIT技術者集団によって表明された「クリプトアナーキスト宣言」を初めとする主義である。

クリプトアナーキズム宣言を読む

30年前の宣言ではあるが、SNS、ウィキリークス、暗号通貨、NFT、メタバース、などなど、現在とこれからのネット空間をほぼ全て予言しているのが驚きだ。
そして重要なのは、これらIT革新が、人々に完璧な自由をもたらす、そう信じられ発展してきたということだ。完璧な自由とは、国家や法律からの自由、無政府状態の中での自由至上主義であり、過激に言えば、民主政治を壊すことが目的と言えるかもしれない。
そこで目指されている未来は、要は能力主義であり、国家や法律、愚かな民衆による無意味な政治、それらに邪魔されることなく、賢く自由に金儲けが出来るシステム、その中で勝ち組たちだけの楽園を描くことだ。そんな、本当の自由とは程遠い世界がこれから広がっていくのかもしれない。


まぁそんな空想、SFはさておき、僕にとっての大きな関心ごとは、アートの価値も変容していくはず、すでに変わってしまったのではないか?ということである。

ネット空間での匿名性、それが過剰に押し進められると何が起きるのだろうか。
作品の表層的なデータのみが重視され、どこの誰が作ったかはどうでもよくなってくるのではないだろうか?
つまり作家の属性や個別の時代、場所の情報が、作品の価値とは無関係になってくるのではないか?

作者が何人でどこに住んでいて、何歳で、男か女か、どこの美大を出ていて、いつ作られたものなのか、、そんなことが無意味になる。なぜなら匿名性が保障された空間では、個人の情報というのは偽ることができ、したがって人はどんな人間にもなることが出来るのだから。

実際に既にそういうことが起きている。
インスタで僕は5,000人くらいフォローしていて気になるアーティストを夢中で見漁っているのだけど、正直どこの誰かなんて全く気にせずフォローしまくっている。酷い場合には、投稿者と作者が一致しない偽のアカウントも混ざっている気がする。もちろん特に気になった作品についてはアーティストがどんな人物か、調べる場合もあるけど、そもそも正体不明のやつも多い。そもそも人間か?AIか?わからないようなアーティストもいたりする。
古い話をすれば10年前は僕のプラットフォームはもっぱらpixivで、その時でも匿名性の中に溺れていたけれど、Instagramではさらに分母が世界規模に増え、未だ増殖を続けている。

もっと新しいNFTについては、実際に観察せずにゴシップニュースを時々眺めるくらいだけど、さらに混沌とした匿名世界が広がっているような印象を受ける。日本風のオタクイラストが爆売れしたかと思えば、アーティストは日本人では無くどこの誰かもわからない。じゃあ何によって注目が集まってるかと言えば、日本のオタク風、という視覚的特徴であり、つまりウケる見た目をしているからで、そこに個別の論理や実体がまるでないのだ。

InstagramやNFTなど、匿名性が保障されたネット空間では、アーティストの個別の属性を飛び越えて、作品は表層的なデータとして直接ユーザーを結びつけ、オンラインのコミュニティを形成することで無限に拡散されていく。

つまり、ただクールだから売れている。
クリプトアナーキズムと繋げてみると、
それは能力主義なのだろうか?
ある意味ではそうだが、単純にそうとも思えない。というのも、アートの価値とは表層的なデータのみでは無かったはずだからである。

レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」を現代の画家が全く同じに描いたとして、同じ価値を持ち得るか?と考えれば、そんな訳が無いことはすぐにわかるだろう。たとえもし「モナリザ」が過去に存在していなかったとしても、今同じ絵を描いたところで、それほどの価値を持ち得るとは考えられない。
言うまでもなく場と人の歴史的な文脈こそがアートだからである。

しかしこう考えてみることも出来る。
「モナリザ」には本来価値などない。なぜなら匿名性のネット空間に放り込まれれば、淘汰されてしまうデータに過ぎないから。オンラインでは、いつどこの誰が描いたかなんて関係無いのだから。表層的にクールで、より多くの者に求められるデータこそ価値がある。歴史や、美術は、人を縛る権力に過ぎない。あらゆる権力から解放されたインターネット空間では、本当に良いものは、無数の匿名ユーザーによって決定される。それはコンピューターが物理的な演算処理をする様に、政治的な力学とは全く無関係に、自然に価値付けがされていくのだ。


ここで全く違った話を出してみる。

京都に「itou」というお店がある。
ある作家の方にオススメされてからというもの、お店に伺うのが密かな楽しみになっている。

itou Instagram
itou HP

いわゆる古道具屋なのだけど、扱っている品は多岐に渡る。用途のわからない既製品、作者不明の謎のオブジェ、どこの子どもが描いたのかわからない絵。文章で説明するのが難しい、形容し難い、名もなきモノたちが、元々の居場所を離れて、それぞれのカテゴリーを越えて、itouに一緒に並んでいる。ひとつひとつを慈しむように、もの同士の親密な関係が紡がれたディスプレイ。その様子は本当に言語化が難しい。お店に行かないとこの奇妙な感覚は分からないと思う。こんな僕の語彙力では1%もまるで伝えられる気がしない。

しかも面白いのは、一つ一つにしっかり値段が付いている。そこまで価格帯に幅があるわけでは無いのだけど、値段の付け方もまるで分からない。意外なものが高かったり、これは良いんじゃないか?と思ったものがそんなでも無かったりする。仕入れの値段にもよると思うのだが、それにしても、価格も含めて眺めるとさらに面白い。こういう形のビジネス、資本主義?が存在していたとは…自分の生きてきた世間とは違う、知らなかった世界を発見していく喜び、幸せ。

itouの世界に飛び込んで、自分が買うなら?という視点で見てみる。
そうすると、いかに自分が社会の価値観や自分自身の美意識に縛られていたか、あらわにされていくようで、気恥ずかしくもなってくる。自分のセンスにこだわりがあればあるほど、自分自身がどんどん揺らいでいく。

僕は絵が好きだから、やはり絵を見てしまう。

たとえば、ある子どもが描いたと思われる絵。
この絵にはなにか魅力を確かに感じる。
しかし、これは子どもの絵だ。つまり作品にしようと描かれた絵では無い。いや、そうは言い切れないが、その可能性は非常に高いだろう。しかも、どこでいつ描かれたかもわからない。男の子か女の子かもわからない。それに、その子が今どうしているのかも、わからない。さらに言うなら、自分の絵がここに展示されて売られているなんて、その子はおそらく知る由もないだろう。

そう考えを巡らすと、待てよ、これはちょっと買えない、となる。僕は、作家の絵は買えるけど、この絵は買うことができない。なぜなら、この絵は名もなき「モノ」であり、個人の表現、アートでは無いからだ。
しかし、アートとして見ることがそれほど大事なのだろうか?という疑念も湧いてくる。本当に美を追求するのであれば、そんな文脈など捨て去って、完全に自由な眼で見てあげるべきなのではないか?いやしかし、作者の想いや時代や場所性を汲み取ることは重要だ。そうでなければ、作家として絵を描き発表する自分自身をも否定してしまう気がする………。

名もなき「モノ」としての魅力と、抗う個としての自意識、、、鑑賞体験を通して、何者でも無かった自分へと僕の眼は洗い流されていくようだ。(itouでそんな風に見ているのは僕だけかもしれないが。。。。)


NFTからの流れでなぜitouのことを思い出したのか。
まったく異なる事象だけれど、僕は何か興味深い繋がりを感じる。共通しているのは、匿名性ということだ。それがインターネット由来のものなのかは、itouについては実際のところは分からない。けれども、僕はitouにはインターネット世代の価値観をやはり感じてしまう。自分もその影響を受けてしまっているから。ネットは広大であり、それゆえに、自由に泳いで宝物を探すことが出来る。そういった感覚を、itouという実際の店舗からも感じることが出来る。

しかし、itouがNFTなどと決定的に異なるのは、匿名だけれど、完全にオンラインでは無いということだ。当たり前だけれど、実際にお店に行かないと、モノには会えない。一部通販もされているけれど、お店で見るのとは全く見え方も異なってくると思う。

itouで、オフラインで、匿名のモノと出会う時、僕は試される。

その現場では、モノが作られた文脈を飛び越えて、僕の美意識が問い直される。
誰かの「いいね」数もまるでアテにならない。
itouの店主である伊藤さんは僕がどういったモノか尋ねると分かる範囲で答えてくれるが、買い付けた伊藤さん自身も分からないことがほとんどだ。
そんな状況で、何を視点にモノと自分だけの関係を結べるか?

まさにスリリングな真剣勝負が、そこでは行われるのだ。その結果、納得して、モノをお迎えできた時には、不思議な達成感を味わうことができる。それは僕にとって、オンラインでは得難い満足感なのだ。


名もなきモノとどう触れ合うか?
なるべく柔軟に生きていきたい。

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