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令和に芸術祭?

現在開催中の、あいちトリエンナーレの一企画展「表現の不自由展・その後」が、市民による抗議活動、脅迫行為、それから恐らく政治の圧力によって、もしくは政治の黙認、あるいは機能不全によって、開始3日で展示中止に追い込まれました。

この展覧会は開幕からニュースになっており、僕も知ることができました。僕は展示取り止めまでの3日間、その動向を注視していました。

まず初めに言えることは、特にTwitter上で、このような「炎上」が起こった時、それが拡散される過程で、個人の態度、ポジションがどんどん明らかになっていきます。そして人にお前は黒か白か?右か左か?ポジション取りを迫ってきます。人をそんな風に否応無く分断するような状況がいつも起こっています。

そんな状況の時、人はどうなるか?

多くの人々の意見に同調する人、いや自分は違うと逆張りする人、素朴に気持ちを述べる人、静観を決め込む人、実に色々です。他人はどうで、自分はどうするのか?常に試されている気がします。

僕はそういう時、強いストレスを感じます。なぜかと言うと、僕は短気だからです。にも関わらず、僕は少数派です。だからいつも言いたいことが言えずに板挟みになっています。そして世論にいつも負けています。

世間の人々に負け続けていると人はどうなるか?

まず第一に、人を信用できなくなるでしょう。

その先は考えたくもありません。


今回のこのニュース、ある街で起こった暴力事件については、僕なりの見方を持ってはいますが、それを言い始めるとそれこそ暴言だらけになってしまいそうなのでそれはやめておきます。それを吐き出しても僕にはマイナスしかありませんから。本当に悪いことは口にも出せません。そのことだけはいつも真実です。

ひとつだけ、言えることは、この社会は自分たちの手で皆のための芸術祭を作ることができる段階に全く達していない、それだけです。

偽りの真似事の芸術祭しか出来ないのであれば、今後一切、二度と、決して、芸術祭なんか開くな。これくらいは、国民として言う権利はありますよね?


アートには夢があります。自分と他人とが、あらゆる障壁を超えて感覚を共有できるというロマンです。一瞬だけでも、そんな幻想にリアリティーを持たせてくれるものがアートであり展覧会です。大げさな話ではありません。知恵の話です。皆んながハサミを使える、とか、挨拶ができる、とかそのレベルの話です。一見当たり前のことだけど、もしかしたら夢かもしれないこと。

その夢を信じることが出来ないのであれば、作品を作って展覧会をする意味なんて、きっとありません。

いや、これはもう信じる信じないの話ではなく、夢を現実に形作ることが出来なければ、敗北したも同然で。逆なのかもしれません。無理やり夢を作るために、むしろ展覧会が必要なのです。そのためには作品が要るのです。特に、僕のような半端者にとっては。そういう思考回路になってしまっているから。

しかし、その夢のための具体的な方法というのは、僕が今いる場所よりも、もっと、もっと大変にシビアな世界にこそ在るはずです。今回露わになったように。現実の具体的な世間様の世界。僕はそういう世界に本当は行きたい。行けるのだろうか。行かなきゃいけない。今のままでは、お話にならないと思う。とにかく何か作らなければ。今はゆっくりでもいいから、前に進みたい。少しでも筆を持つ時間を作っていきたい。無意味でも。

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