円相

小学校作品展で飾ってた作品です。

おおきな◯を描いています。

これは地塗りなしの生キャンバスを用意して壁に貼って、それから黒いクレヨン、色鉛筆、なんでも一本筆を持って、その前ど真ん中に立ちます。

利き手の方の肩をキャンバスにくっつけて、腕を思い切り伸ばします。そのまま手を回して円を描きます。手の届く範囲の限界を探ります。

だいたい理解できたら、筆を持って、自分の手と手が及ばないところの、その境界を描きます。

きれいな円にするコツは月並みな言葉ですが、心を無にすることです。"描いて"しまわないことです。"線"にしてしまわないこと、線というより点を探ることです。ボールの実体は線ではないはずです。

これは、そもそもなんでやることになったか。。たしか、ボールの作品をまず作って、描くうちに、なんか僕自身もボールのような気がしてきたんですよね。

プラス、ボールの作品を置く方法を考えていて、床に境界線を引くやり方も試していました。で、どういう境界線が引けるかなと思って、ボールが一回転して届く範囲をマーカーしています。円周の距離でコンパス引いたことになるのでしょうか。だからボールによって床の円の大きさが変わりました。それでこんなことをやった時に、もし僕がボールなら、また違う円が描けるな、と思ったのです。自分の大きさを描こう、となったわけです。

でもそもそもなんで、この見せ方をしなかったかというと、床に描く、描いているから、描くということは絵なわけで、絵はそれだけで見せないといけないから却下しました。僕にとって絵の具が手によって何か何処かにくっつけば絵なわけで、そうなればボールがむしろ邪魔なのです。それが一番の理由でした。

プラス、「GO」という映画を見ていて、主人公が幼少期にボクサーの父から"自分の大きさ"を教わるシーンがあったのです。拳を目の前に突き出してぐるっと一周する、それがお前の手の届く範囲だ、と。その手の届く中でよろしくやるか、それとも殻を破って、そこから先へ手を伸ばしていくか、みたいなことを説くわけです。主演の窪塚洋介見たさでTSUTAYAで借りただけの映画でしたが、面白い発見がけっこうありました。

絵を描いていると、自分の大きさをよく感じます。絵を描くことは単純明快、手で描いて目で見ることだけです。どこまでいっても自分の腕の手の先にしかありません。

そういう意味ではボールもやったし、絵ってスポーツに近いのではないか。僕はスポーツ全然できませんが、スポーツのようにしていきたいとも思います。スポーツは皆に愛されているでしょう。僕みたいに苦手な人もいるでしょうが。。要するに、誰でも描けるぞ、ということを言いたいのです。体ひとつあれば、誰でも絵は描けます。今回の"円相"だって、誰でもできる。円相とは、禅の書画において円を一筆で描き悟りを表したもの。僕の円相は、誰がやってもオリジナルな円が出来上がるのです。

体のサイズや、癖がそのまま形になります。逆さにして見ると形の歪みが際立ちます。歪みを気にして次に描いた絵はきれいな円にこそ近過ぎましたが、正確さからは離れてしまいました。2回目に描いたものが裏の円です。1回目の方が正しい姿をしています。

ボールの作品だって、誰でもできる。誰でもできると感じさせることが、絵の大事なところなのかもしれない。マティスの絵なんか誰でも描ける。。という感じがするでしょう??中原浩大の「海の絵」だって誰でも描ける、みんなの絵だ、、と何故かそう感じさせるから好きなんです。つまりロマンチックだということなんです。

角がない、まるい。。。。まるい絵です。

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