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お父さんと私

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お父さんの病気と死とそれを乗り越える過程の記録。 大好きなお父さんに見つかった病気、逃れられない死。荒波のように揺れ動き、そして静かに穏やかになっていった私の気持ちや起きたことを…
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#緩和ケア

お父さんと私⑤ 終末医療へ

父の病気が見つかってちょうど1年経つころ、がんが肺に転移していることがわかった。私も母もショックだったとは思うが、一番ショックだったのは、父本人だろう。この日は言葉がとても少なかった。 そんな状態だというのに、(そんな状態だからだろうか)、明日までに書き上げたあい原稿がある、と言って夜遅くまで仕事をしている日があった。身体のことがとても心配だったが、母も私も止められなかった。母は、「お父さんから仕事は奪えないよ。」と言っていた。父にとって仕事は生きがいだった。本当は、止めた

お父さんと私⑥ がんと向き合う 終末医療と向き合う

父が抗がん剤治療を終了させるということは、延命治療をしない、ということで、一般的には、近々最期に向かっている、ということになる。 父の母(私のおばあちゃん)には、弟がいる。私は会ったことがないが、健康に問題があるという理由で、仕事に就いたことがない。祖母は生前、弟の生活を援助していた。祖母が亡くなってからは、祖父が援助していたのだろうか。詳しくはしらないが、生前、祖父は父に、「あいつのことは構うな」と言っていた。援助はしなくていいと。しかし父は、毎月アパート代、生活費を忘れ

お父さんと私⑦ 病気を治すことが全てじゃない

家に帰ってきた父が、私に最初に言った言葉、 「孫がこの家で走り回っている姿を見たい」 その時は、あまりに突然だったので、「走り回るには4年は生きなきゃね」とか冗談まじりに言っていたが、 この言葉は、なんだかとても重かった。 私もそれを望んでいたからだろう。それが現実になりそうにない今、重かったのだ。 それでも、父の生きる希望になるなら、と、そんな動機で子どもを望むようになった。 父はひとつ論文を書き終えたようだ。何週間か後、その論文が載った誌が父の元に届いた。それ

お父さんと私⑧ 最期を受け入れる過程

日記から 例えばお守り、ヒーリンググッズ、天然石などは、とても良い波動や波長を持っていて、音を聴いたり、触れたりすると、それだけで癒しが得られるという。 人にそれは可能だろうか。触れたり、歌ったり、声を聞いたりするだけで、癒しが生まれる、天然石のような人になりたい。 ー--------------------------------- 7月に入った。私はこのころから、右耳うしろから背中にかけて一直線にビキビキと痛みを感じるようになった。時々喉のほうまでムズムズと何か感

お父さんと私⑨ 看取ることへと気持ちが移行していく時

しっかりと記憶していないが、あの晩のあと、点滴やら痛み止めやらいろいろなものをいつでも摂取できるように腕につけていたように思う。 新婚旅行を先延ばしにし、私たち夫婦は結婚して初めての夏季休暇を家の近くの旅館で過ごした。しかし、父の状態に不安もあって、心がざわざわと落ち着かなかった。 父の病気が見つかる直前まで、私は「うつ」と診断され、1年仕事を休職していた。その時、父がNHKでやっていた「ティクナットハン」というお坊さんのドキュメンタリーを観ていて、私も食い入るように観た

お父さんと私⑩ お父さんを看取る

旅館からの帰り道、映画を観て行く予定だったが、私は父のことが気がかりで、とても映画どころではなかった。 旅館を出たその足で、父に会いに行った。 実家には東京に住んでいる妹が来ていた。夕方には信州の方にいる弟も帰省するそうだ。 兄弟がいて少し心強い。母が、父が誰かといれるようにと、書斎に誰もいなくなると、「お父さんと一緒にいてあげてちょうだい」と言った。 書斎で寝ている父は、目は空いていたが、もう視点が定まっていないようだった。目には黄疸が出て黄色くなっていた。腕を何や