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Chennai Days - 1

深夜のチェンナイ空港に降り立った航空機は、建物から少し離れたところで静止した。
前方のドアから機体の外に出ると、思いの外涼しい空気が身を包んだ。大気はわずかに湿り気を帯びているものの、熱帯特有のうんざりするような蒸し暑さは感じられなかった。間も無く日付が変わろうという時間帯ということもあったし、12月はチェンナイが最も過ごしやすい気候になる時期らしかった。まるで日本の初夏のような、あるいは夏の終わりの夕暮れのような心地よい気温だった。ジャケットの下にカーディガンを着ていたが、特にそれを脱ぐ必要性は感じられなかった。
トランジットで立ち寄ったデリーは、雨季の霧のせいか大気汚染のせいか、数十メートル先が見通せないほどの視界の悪さだったが、港町であるチェンナイの空気は悪くなかった。澄んでいるとまでは到底言えないが、大きく息を吸っても息苦しさを感じることはなく、天空にはいくつかの星が瞬いているのが見えた。
タラップを降りると、すぐそばに停車していたバスに乗り込む。エアインディアはインドのフラッグ・キャリアのはずなのに、まるでLCCのようだ。
バスは滑走路の隅を少しだけ走って、ビルに着いた。
デリー空港からは国内線だったので、面倒な入国審査をすることもなく、そのまま預け荷物を受け取りに行った。

とても小さな空港だった。

ターンテーブルは3レーンほどしかなく、向かい合う形で出口があった。荷物をピックアップすれば、すぐに屋外に出られるようになっている。チェンナイは南インドの玄関口なので、もしかしたら国際線の方はもう少し手の込んだ作りになっているのかもしれない。
「DELHI」と表示されたベルトコンベヤーの傍らで、荷物が吐き出されるのを待ちながら、小さなコーヒースタンドのメニューを眺めてインドの物価を確認した。なかなか動き出さないベルトをぼんやりと眺めていると、「デリーの荷物はあっちから流れるそうですよ」と日本語で声をかけられた。
振り返ると声の主はインド人の男性で、隣のレーンを指差している。確かに隣のレーンには人垣ができていた。一方、ぼくの周りには誰もいなかった。流暢な日本語を操る男性に日本語で礼を述べ、隣のターンテーブルに移ると、ちょうど機械が動き出した。

時刻は午前0時を回っていた。

朝の7時に東京の自宅を出発し、ほぼ移動だけで潰えてしまった1日を振り返るとともに、わずか1日足らずで遠い異国の地までやって来てしまったことに驚いた。
小さな国内線だったので、ぼくのスーツケースはすぐに流れてきた。コンテナが汚かったのか、スーツケースの側面は黒いシミで汚れていた。
大きい荷物を3つピックアップして、建物の外に出る。
マスクを少しずらして空気の匂いを嗅いてみると、それとなくインドネシアと同じにおいがした。
湿気った空気のにおい、淀んだ排気ガス、フルーツの香り、スパイスの刺激臭、腐敗した生ゴミの臭い……。
空港まで迎えにきてくれていた人と合流し、車でアパートまで向かう。
深夜の街は静まりかえっていて、人影は見えない。空いた道路を、車はスピードを上げて進む。

町に掲げられた看板には、丸みを帯びた異国の文字が並んでいる。
道路に伏せっていた野良犬が、顔を上げて車の方を見る。
道路の脇には、分別されていないゴミが山積みになっている。
路上では、何かを食んでいる大きな牛が3頭ほど固まって佇んでいる。

インドでの暮らしが、今始まった。

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