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Chennai Days - 5

5時半に家を出る。外はまだ暗い。
路地は深い闇に包まれ、夜明けの気配は微塵もない。Tシャツから出た素肌を撫でる風はひんやりとしており、肌寒いほどである。
しかし、注意深く辺りを見渡せば、街が少しずつ目覚めの準備をしているのがわかる。乳製品を扱う店の前には、牛乳のパックが詰まったコンテナが堆く積まれ、長いほうきと大きなゴミ箱を引き摺る掃除婦たちが、仕事に向かう。夜明け前の澄み切った空気を楽しむように、軽快に散歩する人もいる。

闇に包まれながらも活動を始めた路地の中、ぼくはバスターミナルまで向かっていた。
旅に出るのだ。数年ぶりの海外旅行である。海外に住んでいるので、厳密にいうと「国内旅行」になるわけだが、例の感染症で止まってしまった世界の歯車が、少しずつ動き始めている。たった一人で、ローカルの公共交通機関を使って、安い宿に泊まって、見知らぬ通りを彷徨い歩いて、何が起こるか分からない旅に出るのだ。ぼくは久しぶりに味わう高揚感に包まれていた。わざわざ早朝初のバスを予約して、明けやらぬ街を歩いているのは、少しでも非日常を演出するためだった。

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バスターミナルは大通りを5kmほど北上したところにある。歩くと1時間はかかる距離だが、流しのオートリクシャーを捕まえられれば15分ほどで着く。
しかし、まだ夜明けまで1時間もある早朝のことである。昼間はクラクションと排気ガスが充満している大通りも、今は静まり返っており、ときおり大型のバスやトラックがすごい速さで走り抜けるだけだ。
バスの出発予定時刻は6時半。オートリクシャーを捕まえられないことも考慮して、1時間前には家を出ていた。
インドの高速バスには初めて乗る。だから、できるだけ余裕を持って集合場所に着いておきたかった。インドの公共交通機関というと時間にルーズなイメージがあるが、予約の時点で写真を見た限りではバスの外観はしっかりしており、タイムテーブルを厳格に守っていそうな雰囲気があった。また、早朝は渋滞がないので、バスが遅れる要因はあまり見当たらない。

後方を小刻みに確認しながら、早歩きで大通りを北上した。
遠くの方で、アザーンの優美な音色が響く。間も無く夜明けが訪れる。時刻は5時45分。
路上で待機しているオートリクシャーの姿も全くない。このままバスターミナルまで歩いて行くことになるかもしれない。
少し焦りを感じて、小走りになりかけたタイミングで、通りの向こうから小さな黄色い影が近づいてくるのが見えた。ぼくは立ち止まって、通りに手を差し出した。
果たして、それはオートリクシャーであった。運転手に「bus terminal」と告げると、首をわずかに横に振って、「乗れ」というように手で合図した。

ぼくは身をかがめて、傍らに停車していた車に乗り込んだ。
暗くて気づかなかったが、後部座席には若い女性が3人座っていた。彼女たちは友人同士だと思っていたが、それぞれ別の場所で降りていった。
小さな車は空いている大通りを順調に飛ばしていった。途中で乗り降りする人間も少ないので、なおさらあっという間に目的地に着いた。歩けば1時間はかかる道のりをわずか10分ほどで走り切った。

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まだ暗い中であったが、バスターミナルの周りは賑わいを見せていた。
市場にはすでに人が集まっていた。小さな屋台の軒先には煌々と電球が灯され、商店主が声を張り上げて客を呼び込む。客は棚に積まれた野菜を丹念に調べる。屋台と屋台の間を縫うような細い路地には、野菜や果物の葉屑が散乱している。果物の甘酸っぱい匂いと花卉の青臭さと、インド独特の線香の香りが絡み合って充満している。
バスターミナルからはひっきりなしにバスが出入りしていた。大きいバスもあれば、小さいバスもある。冷房が完備した清潔なバスもあれば、窓もドアも開けっぱなしの粗末なバスもある。遠くの都市に向かう長距離バスもあれば、スクールバスもある。あらゆる種類のバスが、ターミナルに吸い込まれ、そして吐き出されていく。

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集合場所に着いたのは、6時をわずかにまわった頃だった。
夜はようやく白み始めていた。朧げだった街の輪郭が徐々に明瞭になってくる。人通りも増えてきたようだ。
傍にあったチャイスタンドで、10ルピーのビスケットを買った。出勤前のオートリクシャーの運転手たちに混じって、軽い朝食を食べる。ちまちまとビスケットを齧っていると、運転手から「乗っていくか?」としきりに声をかけられる。必要な時にはなかなか現れないくせに、必要ない時には向こうから寄ってくるのだ。ぼくが「これからバスに乗るんだ。プドゥチェリーに行くんだよ」と答えると、「おお、プドゥチェリーか」と運転手はニヤリと笑った。

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30分ほど佇んで、夜明けの空と街を堪能する。空の色味が、行き交う車の量が、空気の温度と湿り気が、人々の話し声が、ちょっとずつ変化していく。夜と朝は、こうやって繋がっているんだと思った。
バスは定刻通りに来た。
胸を高鳴らせているぼくを乗せて、バスは静かに走り出した。



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