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芸術とは受け手の中に。

僕はただ、振り向いただけだった。時が止まったかのような感覚を覚えると、室内は静けさの中に溶けていった。すぐに地響きのような鳥肌が背後から迫りきて、それが脳天まで達したとき、力が抜け、今にも涙がでそうな感覚を抑えた。”緑の絵” がそこに掛けられていた。心震わす芸術とはいつもこう。また、消せないほどの出会いであると感じていた。きっと、日常の隙間においておき、何度も、何度も迎えにいくことになるだろう。

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2017年のいつ頃だったか。東京・上野公園にある美術館でモネの作品が展示されると聞き、僕は当時の恋人とそれを見にいくことにした。モネとの出会いは、確か10歳の頃だ。夏休みの宿題で描いた絵が、美術館主催のコンクールに入選した。その景品として貰ったクリアファイルにモネの代表作『睡蓮』が描かれていた。モネのことも睡蓮のことも知らなかったが、ぼんやりとした不思議な筆のタッチを気に入り、観察をしようとファイルを顔に近づけてみたり、全体を捉えようと遠く離してみたりを繰り返したことを思いだす。

僕は小さい頃から、絵を描くのが好きな子供だった。物心がつく頃には家にあった動物辞典や魚辞典を開いては、描かれている生物たちを色鉛筆でひたすらに模写していた。喘息を持っていて、他の子のようには外で遊べなかったことがそうさせていたのかも知れない。父はそんな僕をみて、西洋の近代絵画が描かれた画集を一冊くれた。まだ小学にも上がらない子供に、美大生が買いそうな画集をくれたのは、今思うとなかなか粋な試みである。しかしその画集に掲載されている絵画というのは、いま思い返しても、とても退屈なものだった。だいたいの絵は全体として暗かった。子供も大人も実際より大きく見え、犬や猫科の動物は実際より狂気じみていて、馬は退屈そうだった。とにかく長く見ていると、気が滅入ってしまいそうになる。初めて知った絵の世界がこれであった。父から与えられた本という意味でのみ大切な画集となってしまった。それでも僕は何度も模写することを試みた。しかし油絵の具で描かれた作品を色鉛筆で写しとるのは無理があった。それでも全体の構成だけでも近づけようとするが、ただただ長時間の退屈な作業に押し込まれるだけ。僕はこの作業を何度か繰り返したのち、おおよそ色鉛筆はやめてしまった。絵を模写する対象として見てきた僕にとっては、描かない前提で見る『睡蓮』はとても楽しかった。その後も中学の美術の資料集やテレビなど、生活のどこかでモネを見つけては、頭の中で “天才” という薄いラベルを貼っておいた。

恋人はモネに興味があったかは分からないが、僕より表現に明るい人間であった。ジム・ジャームッシュの映画を好み、音楽では 60 年代や 70 年代のロックから現在のインディーズ バンドまで親しみ、たまに自身でもギターを弾いた。写真も好きで、本棚には写真家・川島小鳥の作品が並べられていたおり、また自身で撮影したもので ZINE と呼ばれる小冊子を作ったりした。暇なときは隣でよくノートに絵を描いていたが、これがなんとも独特なものだった。とにかく何周もぐるぐると渦を巻きながら発展していき、その歪みや隙間で人を表現する。彩色も通常ではなく、ポップアートかサイケデリック的な調子であり、ピーター・マックスかアンディ・ウォーホルに影響されていたように思う。しかしそのすべてが、彼女の中にある共通した世界観であると僕には見え、その中に招き入れられるたびに大いに刺激を受けることができた。

上野の絵画展で見たものは、モネだけではなかった。モネやルノワールなど印象派の作品が中心であったが、おそらくは、その他の西洋美術界における巨匠と呼ばれる画家の作品もあっただろう。この辺りの記憶は曖昧だ。ただ、大なり小なりたくさんの絵画が壁に並べられており、その多くは鮮やかであった。展示室もおおよそまわったとき、”緑の絵” と出会う。とにかく色々な緑が幾重にも塗り重ねられている縦横1メートルほどの絵は、生い茂る森のようであるが、ぼんやりとしていた。他のことは分からない。捉えどころのない作品だと思った。僕たちはその日みた作品に満足して、逆の方を向いて部屋を去ろうと出口に向かった。”緑の絵” から離れた。「今日みた絵で一番よかったのは?」といった会話でもしていただろうか。さらに “緑の絵” から離れる。そして何気なく振り返ったその先に印象 『睡蓮の池』 が広がっていた。近すぎた距離では、まったく見えなかった印象が遠くから見ることでようやく捉えることができた。目が潤んだ。背後から地響きがやってきて、力が抜けた。

(『睡蓮の池』- クロード・モネ 引用元)

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19世紀フランス。絵画といえばアトリエに籠り描くものと決まっていた。顔料とよばれる粉末を油とともに混ぜ、自分用の絵の具を作り、筆でパレットの上で調色を行い、カンヴァスへ運ぶ。絵の具を外で持ち出す手段がなかったわけではないが、その場合は動物の膀胱に入れて持ち歩かなければならず、また当時は移動手段も限られていたため、外での制作はほとんどなかった。しかし、1870年代に入りチューブ入り絵の具が普及し始める。絵の具をつめた膀胱を持ち歩く手間がなくなったことで、画家たちは外にでて、風景や市民を描くようになった。これを “戸外制作” という。当時としてはかなり進歩的な取り組みで、それまで描く対象というのは神話の世界か貴族の肖像というフランス美術界によって新しい風が吹くこととなる。それまでアトリエで制作していた画家は、外の世界の光の鮮やかさとその反射にどれほど魅了されたことだろう。だがすぐに、ひとつの課題にぶつかることになる。その魅惑の光を捉えようと奮闘する中で、日の光、つまり太陽は常に移動してしまうということだった。どれだけ早く筆を走らせようと日の角度は変わり、また影の形も変わってゆく。昼食ごろには強い白色であっても、次第に弱まり光は赤みを帯びていく。そこでたどり着いた一つの手法が “筆触分割” といわれるものだった。ある日、戸外制作をしていたモネは、絵の具をパレットではなく筆先に直接おき、そのまま調色もせずカンヴァスに描くという試みを始めたのだ。この手法により短時間で絵画を制作することができた。さらに絵の具を他の色とあらかじめ混ぜないという点においては、風景や人々を、その眩しさそのままに表現することに適していた。絵の具の色というのは、混ぜれば混ぜるほど、黒に近くなり明るさが失われてしまうからだ。また、筆触が見えるようにカンヴァスに配置することで、その無数のタッチが輪郭をぼかし、光の輝きと度合いをうまく表現することができた。

しかしこのやり方は、大きな反感を買うことになる。なぜなら、当時のフランスにおいて画家とは自由と対極にある職業であったからだ。好きな風景を見たままに、感じたままに、白いカンヴァスの上に写しだし、そこに独自性や少し変わったやり方が見出されれば評価を受け、一人前の「芸術家」になれる、そんな世界は夢よりも遠かった。まず美術界はフランス学士院の一部門「美術アカデミー」に支配されていた。画家を志す人間が画家になるためには、この「美術アカデミー」が主催する展覧会で大御所たちに評価される以外の道がなかった。では大御所たちが気にいる絵画とは何か、それは古いやり方を厳格に尊守した作品であった。題材、描く工程、全体の構成、光のあて方。大御所たちの中でも派閥はあるが、評価を受けるためには古いいずれかのやり方を完全に遂行しなくてはいけない。個人の思想や新しい表現は嫌われた。大衆は芸術を「美術アカデミー」の評価によって判断するので、道を外すと大変である。

しかし、今では印象派と呼ばれるようになった画家たちは、自己の表現を捨てきれずにいた。「美術アカデミー」が主催する展覧会で何度落選されてもである。当然みな「芸術家」になりたかった。そのために多くは美術学校に入ったり、画塾の門下生として何年も修行をした。「芸術家」になる唯一の方法が、「美術アカデミー」が気に入る題材を決められた構成や手法で描くことであったとしても、生きていくために絵を描こうとはしなかったのだ。

“近代絵画の父” と称されるポール・セザンヌは、恋人・オルタンスとの間に子供を授かったが「美術アカデミー」に気に入られる絵、つまり売れる絵を描こうとはしなかった。父親からの仕送りだけで生活をしなくてはならず、オルタンスは生活を切り詰めながらもなんとか画材を買う費用を捻出した。

『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』などの代表作で知られるルノワールは、絵を描くことが好きな少年で、18歳になる頃には陶器絵師として十分に絵で食べていけるほどの稼ぎを得ていた。しかし、近代化の波が絵師の仕事を奪うことになる。産業革命による機械化や技術革新によって陶器や磁器に機械でプリントの絵付けをする方法が発明されたのだ。その後、画塾に入り絵画を学ぶが、その日々で相当な貧乏を体験することになってしまった。画商から借金をしており、手紙を送る切手代さえない時もあった。しかし同じ画塾へ通っていた同志・モネの貧しさに比べればいくらかまともであった。

モネは1867年に『庭の女たち』が「美術アカデミー」が主催する展覧会で落選した後、恋人・カミーユとの間に子供を授かるも、日々パンを買う金もなかった。評価されない自身の表現、それを描き続ける苦痛にとうとう耐えられなくなり、一度セーヌ川に身投げしたほどである。貧乏人・ルノワールが見兼ねて何度もパンを届けにいった。

「美術アカデミー」が主催する展覧会では、もはや評価されることはないと悟った印象派の画家たちは、ついに「美術アカデミー」に対して公然と反旗をひるがえす。なんと展覧会を自主開催してしまうのだ。共同して「画家、版画家、彫刻家等、芸術家の共同出資会社」という名の株式会社を立ち上げ、年会費60フランを支払えば参加できるものと組織した。そして ”第1回印象派展” と後に呼ばれるようになった展覧会を1874年に開催する。モネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、セザンヌ、ドガ、ベルト・モリゾなど、30名の画家たちが165品を展示した。代表的な展示作品には、『印象、日の出(モネ)』『桟敷席(ルノワール)』『首つりの家(セザンヌ)』『ゆりかご(ベルト・モリゾ)』などがある。しかし世間の評価は変わらなかった。

(『印象、日の出』- クロード・モネ 引用元)

(『桟敷席』- オーギュスト・ルノワール 引用元)

(『首吊りの家』- ポール・セザンヌ 引用元)

(『ゆりかご』- ベルト・モリゾ 引用元)

そもそも展覧会に多くの人は来なかった。また足を運んだ人々もその主な目的は彼らの絵画を嘲笑するためだった。「ばかばかしいお笑いものを集めた作品展」と呼び、「汚いカンヴァスの上に、パレットの削り屑を一様に置いてあるだけ。頭も尻尾もなければ、上も下も、前も後ろもない」と冷たい言葉が変わらず彼らに浴びせた。批評家 ルイ・ルロワは風刺新聞「ル・シャリヴァリ」でモネの絵画はせいぜいスケッチであり、完成した作品とは言えないと断じたうえで「なんという放漫、何といういい加減ざだ!この海の絵よりも作りかけの壁紙の方が、まだよく出来ているくらいだ」と書いている。

そして貧困も続いていく。展示会自体はなんとか黒字で終わったものの、ほとんどの画家は「画家、版画家、彫刻家等、芸術家の共同出資会社」の年会費である60フランをも回収できなかった。

印象派の画家たちが、市民権を得るのはもう少し先の話である。

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印象派の画家たちは狂気じみている。人間に、自身が苦痛を背負ってもなお、その荷を下ろさず、歩き続けることができる対象はどれくらいあるだろうか。彼らが捨てられなかったものは、身の回りの愛する人たちでも、宗教的な信仰でも、イデオロギーでもない。ただ、信じた表現の世界をどこまでも向き合い続けるその感性だった。誰が好きで貧困をやるだろう。誰が好きでいつまでも反骨的な青春の中で生きるだろう。それは狂気以外で説明がつくだろうか。学校で受けた授業を思いだす。印象派ときくと、なんだかおカタい気分がつきまとっていた。だが、そうではなかった。おカタいのは専制的な権威のほう。

“印象派” というテーマと向き合うことができたのは、友人が少し前に絵画の歴史がおもしろいと話を聞かせてくれたことがきっかけだった。そのおかげで、いくつかの本から絵画の世界に入り、印象派の絵画や画家が魅力的で、その物語が愚直にひとつひとつ進んでいく様を知ることができた。それと同時に、僕はなんと、パッと見やすいもの、食べやすいもの、読みやすいものばかり触れてきたのだろうと、いま痛感している。現実とは仮に美しい抽象的な世界に内包できたとしても、その詳細は入り組んだ複雑なものであるということをあらためて感じさせられた。たとえ、長時間の退屈な作業に押し込まれても、向き合わないと分からないことは多い。もしそうすることを諦めてしまえば、人は極論論者となり、短いものは気にも留めず切り落としてしまうようになるのではないかなと、そんなふうに思うのだ。「美術アカデミー」の大御所のように。

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