【アメリカ生活:2001年 渡米1年目(結婚1年目)極貧生活&お勉強の巻】
先日の記事「結婚20周年」では全然結婚20年間のことが書けず出会いから結婚までで終わったので(まぁ私の話しがいつもながら長いからという理由だが・・・😅)、ここから小分けにしてアメリカ生活の足跡を書いていこうと思う。まずは渡米初年度2001年の話しから・・。
2001年4月、新婚生活はGardenaという場所から始まった。Gardenaはその昔日本人が多く住んでいたということでいまだに日系のスーパーやレストランなどがある。今はGardenaの南側にあるTorranceという市の方が日本人にはメジャーかな。。結婚前は大阪の江坂の近くで1DKの小さいアパートで8万円出していたので、このGardenaでだんなが探し当てたアパートはなんと2部屋(1ベッドルームと1リビングルーム)に大きめのキッチンがあって5万円ちょっとはすごく安くて大きい!!😳って感動したもんだった。
(今になって言えるが、まぁ古くてアメリカにしては狭いアパートだった。何より場所がかなり危ないところに近く、銃声もよく聞こえてきてたし🔫週末はパトカー、救急車が行きかう道路沿いに住んでいた。しかし何せ初めてのアメリカ生活がこれで比較基準がないもので、アメリカ生活こんなもの・・と思い何も疑問にも恐怖にも思わなかったのが振り返ると幸いだったかと。。。😆)
だんなが働き始めたところは小さな個人がやっている会社で非常にアットホームなところだった。私も知り合いも友達もいないので、最初はだんなとだんなの会社の人だけが頼りだった。飛び込みのどこの馬の骨ともわからない彼を雇ってくれた会社はすごいが、あまり給料はよくなく(当たり前だ)そしてその後数か月でその給料が半分になり、9月末には「ごめんね・・もうお給料出せない・・」と解雇されることになった。
すごくいい人たちだったので、ここまで雇ってくれたことに感謝しないとな・・という気分だった。アメリカに来る足場を作ってくれた人達だし。。。 ただ「さて明日からどうする・・?」という気分にはなったな・・。あまりにも深刻すぎて誰にも言えず親にも言わず、でもとりあえず日本の貯蓄を崩しながら生活はできてたし、、、ここで日本に戻る・・・というチョイスもあったんだろうが、当時はそれは1%も考えなかったなぁ。。 なぜか「なんとかなる」という気持ちが強かったような気がする。実際、だんなが数日後にはまた超小さい会社ではあるが会計関係の会社で仕事させてくれるところを見つけてきたし。。 ほら、なんとかなった。。。笑😄
私はというと5月ころから語学学校に行き始めた。当時USCという私立の大学に憧れの先生(Woundの世界では日本でも有名なBarbara Bates Jensen先生)がいて・・・というだけの理由でUSCの大学構内にある語学学校に入った。ほんの3か月くらいだったが、ちょっとだけアメリカの大学というのを体験できたのは楽しかった。ここで数人の日本人、そしていろんな人種の人達と出会った。英語もしゃべれない中でしゃべれない者同士がいろんな行事を通して仲良くなっていく、本当に学生気分に戻れてとても楽しい時間だったことを記憶している。だんなの薄給だけで私には収入はなく本当に極貧の生活だったが、この当時できた友達はみんな学生でみんな極貧の生活をしていたので、極貧が苦ではなかったな。。車を持ってない子が多い中で、私はド中古車ではあったが車を運転して語学学校まで通っていたので、何かあればお友達を乗せていたような気がする。
日本では運転免許こそ持っていたが、ペーパードライバーだった私。車がないと不便なロサンゼルスではアメリカ着いた翌日から運転の練習をさせられた。下手だからボロ車でよかったんだろうけど、まぁ加速の悪い、フリーウェイでもアクセル全開にしてもなかなか加速が追い付かず、下手な上に車の性能も最悪ってことでまぁ今思うと危なったなぁ。。😅
夏頃からは家の近くの語学学校に行き始めた。その語学学校には訳アリな人たちが多く、なんだかいろんなバックグランドを持つ日本人に知り合った。みんないろんな理由で日本からアメリカに来ている。夢を抱えてバイトしながらアメリカ生活をワイルドにしている人たちの話しは刺激的で自分もがんばろう!って思えたなぁ。。
英語を早く習得するためには日本人とつるまずに外国人と友達になって「英語」をしゃべるべき!という考えがある。その考え、よくよくわかるし実際最初私もそうも思っていたが、生活していて何か困ったことがあると頼れるのは同じ文化を持つ日本人だった気がする。自分よりも先にアメリカ生活をしている日本人にいろんな生活の知恵を教わったし、日本人アメリカ生活あるあるもシェアできる大切な仲間だった。
しかしそんな語学学校の先にあるやりたいことって何なんだろう・・・
まず、日本からアメリカに渡米した段階ではビザのこともあり5年だけアメリカ滞在するつもりだったので「その5年間でできれば看護の大学院に行けたらなぁ・・・」という漠然とした夢があった。(今思うと甘いな・・・😅笑) 渡米直近3年間は日本の看護大学で助手をしていたので、その当時研究をお手伝いさせてもらっていた褥瘡についてや、臨床ナース時代に非常に興味のあったオストミーのケア系の勉強がしたいと思っていた。それを調べていたらそのWOCナースのプログラム、唯一カリフォルニアにあったUSCのコースが私が渡米してきた年にクローズされたというニュースだった。まぁ仮にクローズされてなくても当時の英語能力や経済力すべて鑑みるとどう頑張っても私は行けてなかったけどね。😅 しかし全体像が見えてない当時の私は無謀な考えも無謀と気付いてなかったことも多々。。 さぁ私はどこのどんな大学院に行きたいんだ・・? どういうオプションがあるんだ・・? 自分で調べながらよくわからずUCLAの大学院の説明会にも顔を出したことあるが、なんか自分だけ外人でこっちの大学も出ておらず、先生の話してる英語も全部聞き取れず「???」が頭の上にいっぱい出たまま圧倒されて終わった記憶がある。とりあえず日本の大卒でこっちの大学院受けれるか?みたいな質問を直接先生に聞きにいって話してすごく感じたことは「こっちで看護の大学院に行くにはこっちの臨床経験がないと厳しいな・・・」ということだった。
というわけで、なんとなくここまでいろんな迷いがあった私だが、どうやら矛先が見えてきた。
まずは「アメリカのナースの資格をとること」
そしてできれば「アメリカでナースとして働いてみること」
そこがはっきりするとそこからはどうしたらそれが可能なのかのリサーチと勉強あるのみだった。どこに進めばいいのか、どこに進みたいのか、何が自分にはできるのか・・・などいろいろ考えていたことが随分スリムになってきて、目標がクリアに見え向かっていくことができ始めた気がする。遠回りに見えても考えることは大事やね。なんか当時の生活レベルはもう底の底だったから(吉野家の丼を1個買うと1個フリーになるクーポンでそれをだんなと食べて今日は安くついた~と喜んだりするような日々・・笑)なんか失うものがない強さみたいなものがあった時代だったなぁ。。。
こうして私は平日午前は語学学校へ行き午後は自分で買ってきた正看護師の資格本を辞書と格闘しながら解いていく、そしてだんなは小さな会計の会社をお手伝いしながら夜や休日は会計士の勉強をする・・という生活が始まった。まるで受験勉強中の学生のような2人。子供・・・など経済的余裕があまりにもなく考えにも及ばなかったな。。
そんな「甘い新婚生活」とはかけ離れた新婚1年目ではあったが、今でもたまにだんなと話すことがある、「あの頃はあの頃で楽しかったよなぁ・・・」と。。。
夫婦で切磋琢磨。渡米初年の2001年はそんな年なのでした😅😄
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?