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【坂本龍馬】勝海舟とは?坂本龍馬と勝海舟の関係は?

脱藩した坂本龍馬は江戸へ向かい、幕臣勝海舟と出会います。
勝海舟は江戸幕府海軍奉行並という役職に就いていました。
そこで勝海舟の日本中の誰よりも進んだ考えに触れる事になります。


龍馬、土佐を脱藩する

1862年(文久2年)龍馬は土佐を脱藩しました。
土佐勤王党の武市半平太は、藩を挙げての尊王攘夷を目指しています。
対して党員の中には武市が二の足を踏んでいると考える者もいました。
誘われる形で龍馬は脱藩しました。

そもそも脱藩とは?

ドラマなどでは脱藩が重罪と描かれる事が多いですが、実際はどうだったのでしょうか?
脱藩が重罪となる理由は藩の機密が漏洩されたら困るからです。
しかし江戸時代中期以降は漏れて困る機密が少なくなっていたので、黙認する藩も多かったようです。
土佐藩は複数人の脱藩の場合は重罪で、家族にまで責任が及びます。
龍馬のような単独の場合は本人が帰藩できない程度です。
幕末では脱藩する人も多いので管理してられないのが実情だったのでしょう。
街道の関所を通れないので移動に不便はあったと思いますが。

龍馬の脱藩後の動向

3月に脱藩して8月に江戸に到着するまでの動向は明確にはなっていません。
下関や薩摩に向かった事は史料にありますが、まだ後ろ盾や自分の武器を持っていない状態なので、江戸に向かう道中長州、大坂(当時はこう書いた)、京都など見識を広める旅をしていたのでしょう。
江戸での目的は勝海舟に会う為です。
その際福井藩主松平春嶽に紹介状をもらうというとんでもない作戦をとります。
龍馬がお世話になっている小千葉道場の千葉重太郎が福井藩の剣術指南をしていたツテがあったようです。諸説ありますが。
何はともあれ同年12月龍馬は念願の勝海舟との面会が叶います。

勝海舟との出会い

勝海舟は渡米経験があります。
日本よりも遥かに発展したアメリカを見て、攘夷は不可能だと知っている数少ない人物でした。
そこで龍馬に、欧米と日本の技術の差や海軍の重要性。国防、貿易を強化しないと植民地化されてしまうと諭しました。
勝の考えのスケールの大きさ、日本の将来を誰よりも考えていた事に強く感銘を受け、その場で弟子になりました。
その決断力も流石の坂本龍馬ですね。

最高の師匠を得た坂本龍馬は、ここから一気に時代を駆け抜けて行くことになります。

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