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【坂本龍馬】神戸海軍操練所設立と幕末の動乱。

神戸海軍操練所設立

勝海舟と面会した坂本龍馬は海舟の考えに感銘を受けて弟子になりました。
海舟は土佐藩主山内容堂に取りなして龍馬は脱藩の罪を許されました。

海舟は海軍設立の必要性を訴えるため、14代将軍徳川家茂をはじめ幕府要人や藩主たちを軍艦に乗せて実際に体験させました。
その甲斐あって、神戸海軍操練所と海舟の私塾(神戸海軍塾)の設立の許可が降りました。
幕府から運営資金三千両(現在の価値で約1,200万円)を支給されましたが全然足りず、龍馬は福井藩主松平春嶽から千両を借り入れました。
龍馬が海軍操練所設立の為、奔走している時に他藩での情勢はどんどん変わりつつありました。

土佐藩の情勢

1863年(文久3年)4月、謹慎が解かれた藩主山内容堂は吉田東洋暗殺の下手人を探し始めます。
この段階で土佐勤王党は疑われています。
そもそも山内容堂は下級藩士の集まった土佐勤王党が気に入らないのです。
朱子学の悪影響が出てしまっています。
同年8月、京都で八月十八日の政変が起き、全国的に倒幕から佐幕の流れになっていきます。
武市半平太の弟子が政変に加担していた罪により9月、武市半平太が逮捕されてしまいます。
ここから土佐勤王党は事実上壊滅状態になります。

龍馬、長州藩の暴走に巻き込まれていく。

長州藩は天皇を利用して倒幕をしようとしていました。
孝明天皇は外国人を憎んでいる。
     ↓
開国はしたくない。
     ↓
幕府は天皇の許可を得ずに開国した。
     ↓
幕府は朝敵なので倒すべし。

この理論です。
しかし、そもそも孝明天皇は開国に反対はしていませんでした。
長州藩士長井雅楽の提唱した「航海遠略策」によって開国賛成派になっていたのです。
しかし長州藩は倒幕が1番の目的なので、天皇は開国反対派でないと困ります。
そこで謀略を巡らせ、長井雅楽を自害に追い込みました。
それを受けた孝明天皇は激怒し長州藩が京都に出入りするのを禁じました。
これが八月十八日の政変です。
翌年京都に戻る事を目的とした禁門の変で完全に長州藩は朝敵になりました。
ここに海舟の塾生も参加していた為、その責任を問われて神戸海軍操練所は閉鎖されてしまいます。
閉鎖される際海舟は塾生たちを心配して、薩摩藩家老小松帯刀に庇護を頼んでいます。
ここから龍馬の活躍の舞台は京都、九州に移っていきます。

ちなみに龍馬はこの動乱の最中、楢崎龍(お龍)と結婚しています。

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