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「極楽の箸」で学んだ助けあいの心

助けあうことは大切です。これを否定する人はいないはずです。それでも、僕は人と助けあうことができませんでした。何でも一人で解決するのがプロだと考え、助けあいを否定していました。だから、僕から人が離れていったのだということが今になってわかります。

飯田屋_オフショット (10)

仏教の教えの一つに「極楽の箸」という話があります。ある男が亡くなり天界に召され、地獄と極楽の見学に行きます。地獄には話に聞いていた血の池はなく、針山はおろか鬼もいません。それどころか、地獄も極楽も空は青く、きれいな草原が広がり、美しい小川が流れる同じような光景が広がっていたそうです。

しかし、そこに住む住人の様子はまったく違いました。地獄の住人たちは痩せこけ、眉間にしわを寄せ、いらいらとして誰一人幸せそうな表情の人はいません。一方、天国の住人は健康そうで優しい表情を浮かべ、みんなとても仲がよさそうなよい雰囲気でした。

両方の世界には同一のルールがあります。食事では、三尺三寸(約1m)の長い箸を使って食べなければなりません。どちらの食卓の上にも、豪華な料理が山盛りに並んでいました。

ゴオンと食事の開始を告げる鐘が鳴ると、地獄の住人は我先にと必死に自分の口へ料理を運ぼうとします。しかし、1mもの長さの箸を使っているため、箸が隣の人にぶつかったり、料理を落としてしまったり、うまく口へ運べません。箸をぶつけられた人は怒り、地獄の住人どうしで喧嘩が始まります。自分の腹を満たすためだけに行動し、結局誰一人としてまともに食事ができません。

一方、極楽の人も同じように長い箸を使っていますが、仲よくにこやかに食事を楽しんでいます。なぜなら、長い箸でご馳走を挟むと「どうぞ」と言って、自分と反対側の食卓の人にそれを食べさせているからです。すると「ありがとうございます。今後はお返しいたします。何がお好きですか?」と、労わりあうのです。だから極楽の住人は飢えることなく、まわりと助けあうことでお互いに幸せになれているのです。

教科書にも掲載されている話なので、ご存知の方も多いでしょう。でも、この話には続きがあるのをご存知でしょうか。この光景、実はすべて夢だったのです。

主人公の男は汗をびっしょりかきながら目覚め、「あぁ、リアルな夢だったな」と嫌な気持ちで布団を飛び起きて、慌てて会社へ向かいます。そして会社の扉を開くと、そこにはいらいらした表情をして誰一人として助けあわず、労わらない職場が存在していました。

それは、まさに夢で見た地獄の光景。自分の都合だけを優先し、相手の都合を考えもしない地獄の住人たちがいたのです。そして、自分自身も同僚と助けあいもせずに自分勝手に振る舞う、夢で見た地獄の住人そのものだったことに気づくのです。「そうか、地獄とは死んでから初めて行くものではなく、現世にも地獄は存在するものなんだな」と知り、この話は終わります。

飯田屋_オフショット (1)

このように、人は死ななくても地獄を見ることができます。僕は今まで、従業員の事情や家族の都合を考えもせず、いつも自分の都合ばかりを優先してきました。まさに僕は地獄の住人そのものでした。従業員を労わり助けようとしなければ、誰も僕と助けあおうとするわけがありません。それはまさに地獄の光景です。

誰だって地獄にいたいと思いません。だから、人が僕から離れていきました。反対に、労わり助けあえれば、この世にいながら天国に生きることができるのです。

飯田屋はどちらを選ぶべきでしょうか。もちろん、天国で生きたいに決まっています。こうして、たどたどしくですが、僕から一緒に働く仲間に長い箸でご馳走を与えようと努めはじめました。

すると、これまでと目の前にあるものは変わらないのに、目に見える景色が180度も変わっていきました。感謝の時間を繰り返して、感謝することの大切さや心地よさが身についてくると、苦しむ人の気持ちに寄り添い、助けあう心が成長したように思います。

書影 (3)

☞この続きは『浅草かっぱ橋商店街リアル店舗の奇蹟』90ページ〈営業方針はまさかの「売るな」〉へどうぞ。

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