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山の道しるべのような店

東京・銀座の真ん中にある道しるべは、朝夕数え切れないほど無数の人々の側に立っているのに対し、アルプスの山の中に立つ道標はめったに人の目には触れない。
しかし、誰が、この山の道しるべの価値が低いということができようか。
大都会の真ん中なら道しるべはなくても、路に迷うことはない。
アルプスの山の中であればこそ、その小さな道案内は大切なのである。
私は、その意味で、買物に不自由な小さな村や町の小さなお店こそ重大な存在の意義があるのだと思いたいのである。

商業界創立者、倉本長治が1956年に上梓した『店主読本』からの一文であり、私が愛する一文のひとつです。

実店舗小売業にとって、立地の良し悪しは繁昌する上で欠かせない要件とされています。それゆえ多くの商人が、良い立地を求めて店を出してきました。

とりわけチェーンストアにとって立地は、道路一本違えば売上げが大きく異なるほど重視されています。大黒柱に車をつけよ――日本最大の小売企業、イオンの前身、岡田屋の家訓はあまりにも有名です。

けれど、どんな過疎地にも人の暮らしがあります。「儲からない」という理由によって、そうした生活者の暮らしを顧みない商いを、倉本は冒頭の一文で厳しく戒めているのです。

広島県三次市甲奴町――山陽新幹線福山駅から車で1時間あまりの山間のまちにある、小さな食料品店「ヤマザキショップ中久保」を取材したときの話です。レンタカーを借りて向かったのですが、途中、しばらく対向車にも出合わない道を運転しながら、そこで商売することの難しさを感じました。

しかし、その小さな店を訪ねると、そこには地域の暮らしを守ろうと静かな情熱を持つ商人がいました。より良い店になろうと、改装にチャレンジした人物です。

下のチラシは新装開店時に配布したもの。商品写真と価格ではなく、お客様、お取引先との写真とコメントが紙面を飾っています。つまり、そうした絆こそ自店の価値であり、使命だと宣言しています。

取材がひと段落すると、時刻は夕方。「おかえりなさ~い」と、売場に立つ店主・中久保勇さん、幸子さんご夫妻とご両親が声を揃えてお客さんを迎えます。小さな店には、さまざまなお客さんがやってきて店主家族と会話を交わしながら楽しそうに買物をしている姿がありました。

「普通に、明るく、楽しゅうて、美味しい酒が購入できて、当たり前の会話ができる店を、この甲奴の地に残したい」とは前述のチラシで示した中久保さんの決意。それから3年あまり。私がもう一度訪れたい店の一つです。

地域の暮らしを守り育む――店主の決意は店のしつらえ、品揃えにも具体化されていました。そこには商人の誠実がありました。


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