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言葉を発し続ける甲斐心愛さんについて

甲斐心愛さんは強い。そして彼女はやはりアイドルだ。そう思わされる2020年5月となった。

以前、甲斐心愛さんの早朝のshowroomのおかげで規則正しい生活を送れていることに感謝するnoteを書いた。

その後にちょっとした出来事があって、心愛さんは朝の連続配信をやめてしまった。調べればわかるし隠すことでもないので、かいつまんで書くと、配信で心愛さんは今の状況において不謹慎な発言をした。

もちろん謝罪した。

謝罪してから数日間、配信もメールもなかった。普通にアウトな発言だったので、反省文とか書かされているのかなとか想像もした。不安だったが待つしかない日々を過ごした。毎日の配信を順調に続けていて、彼女と私達視聴者の相互作用で熱狂が高まっていく中で、それは浮かれて踏み外した一歩だった。彼女にそういう気の緩みを許してしまった自分も共犯者のような気分だった。私もその配信をリアルタイムで見ていたはずなのにまったく記憶になく、後から知って、覚えていない自分がとても情けなくなった。見ていると言いつつ半分寝ていたのだろう。心愛さんに劣らず私も注意が足りていなかった。私も不注意な発言で人を傷つけてしまった経験があるので、全然彼女を責められない。

数日間まったく音沙汰のなかった心愛さんが、やっとshowroomを配信したときも、まずは謝罪からだった。以降は配信もメールもこれまで通りやるようになった。しかし、当然というか、心愛さんは変わった。今の心愛さんは、配信では言葉をひとつひとつ確かめながら注意深く発している。何かを言おうとして口をつぐむ場面もある。送られてくるメールの文章も以前より丁寧になった。推敲に推敲を重ねているのだと思う。彼女のやりすぎなくらいの慎重さから、二度と同じ過ちを繰り返さないよう気をつけているのが痛いほどわかる。

再び心愛さんの声を聴けて安心したけれど、怯えているような心愛さんを見ていると辛くもなる。迷って言い淀んで彼女の身体に溜まる言葉が、いつも溌剌な心愛さんを沈ませているように感じる。

無理しなくてもいいのに、それでも心愛さんは配信する。それが今出来る精一杯のことだと、彼女は考えているからだろう。本当に勇気のある人だ。もし自分が同じ立場なら逃げていると思う。改めて彼女はアイドルなのだなと尊敬する。


そんな心愛さんに自分は背中を押されている。

唐突に話は変わるが、最近のツイッターでは給付金の問題や検察庁法改正のハッシュタグなどに関連して、政治的発言を積極的にしていくべきだという圧を強く感じる。会話の話題で政治と宗教は避けようと言われていた時代から変わって、もっと政治的発言に寛容である世界が、今は私も正しいと思うが、意見を表明しなければならないというのもまた違うと思う。発言しなければいけないと思わせる圧力に苦しくなる。

私の身近な人は知っているはずだが、私は超が付くほどの無口だ。文章では多弁なくせにリアルでは本当に無口だ。子供の頃は親から、言葉にしないと何も伝わらないからしっかり発言しなさいと何度も言われた。それでも人生のほとんどを沈黙と共に生きてきた。我ながら黙ってばかりでよくここまで生き抜けてこれたものだと思う。そういう生き方をしていると、辛くなるとつい口をつぐんでしまう。小さい頃からの癖で、静かにやり過ごそうという甘ったれた考えについ逃げてしまう。

しかし心愛さんはこの辛い状況、自業自得とはいえ私の思い違いでなければ逃げ出したくなる状況でも逃げない。言葉を発し続けている。すごいことだ。

何か発言せよと強制されているような状況で言い淀んでしまう苦しさを感じている自分にとって、辛い中でも顔を見せて言葉を発している心愛さんはとても輝いて見える。心愛さんも頑張っているのだからと、自らを鼓舞する力が湧いてくる。

よくアイドルファンが、誰々ちゃんのおかげで自分はこう変われましたと述べる場面に遭遇する。そんな人達のことを素直で素晴らしいなと、私は単純に羨ましかった。自分を変えるきっかけとしてのアイドルという、そのようなアイドルの存在意義を私はこれまで持てなかったからだ。

しかし、今なら心愛さんと一緒に自分も変われるかもしれないと思い始めている。心愛さんの自分の仕事に対する真摯な姿勢が私を動かしている。私は一人ではない。

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ついつい自分語りまでしてしまったが、何よりも言いたいのは今も甲斐心愛さんを好きな気持ちは変わらないということだ。間違いを犯した自分自身と対峙する心愛さんに勇気をもらっている。再び歩き出そうとしている彼女を見守りつつ、私も見守られている。どうかこれからも一緒に、二人の距離は遠いながらも、楽しい時間も苦しい時間も共に歩んでいけたらなと願っている。



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