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吉本ばななと江國香織

先日、まだ飲食店の営業自粛がそこまで大々的に行われてなかった頃、秋葉原のカリガリカレーに行った。もちろんカレーを食べるために行ったのだが、それ以外の理由もあって、そのお店で働いている出雲にっきさんに会うためでもあった。美味しいカレーを食べて、にっきさんとも久しぶりに話した。他愛もない世間話だったが、avandonedが解散した今、このお店しか会える機会がないので少しの会話でも有り難かった。会話で最近読んでいる本についての話題が挙がった。そのときのにっきさんは吉本ばななを読んだと話していた。自分もおすすめの吉本ばなな作品を話したと思う。もっと深く話したかったけど、そういうお店の雰囲気でもないので、軽く会話を交わしただけで終わった。

最近は自粛生活で家に閉じこもりなので、部屋の整理も捗る。その整理をしていたら、表紙カバーのない読み古した吉本ばななの文庫本が出てきた。ここ数年、吉本ばななの小説をがっつり読んだ記憶はないけれど、くたびれた文庫本を見ると、昔は結構読んでいたんだと思う。確かにその文庫に含まれている『うたかた』はあらすじも覚えている。これもにっきさんに教えればよかったなと思った。いつも別れた後に伝えたかったことが湧いてくる。

その文庫本は角が丸みを帯びている。吉本ばななの小説は疲れていてもさらりと読めるので、定期的に読み返したりしたのだろう。そう、彼女の小説は薬のように読んだそばからすぐに溶ける。その溶けきらなかった微かな上澄みが小説の記憶となって、チラチラと日常の静かな光となる。

とても大雑把な分類になってしまうが、吉本ばななと江國香織は同じジャンルの小説家と言える。もちろん読みの解像度を高めていけば二人の小説が違うのは当然だけど、大きな括りでは同じだと思う。

その江國香織だが、私が今も昔も好きな元ハコイリ♡ムスメの門前亜里さんは彼女の小説が好きだ。よくSNSでも取り上げている。その影響でそれまで読んだことのなかった江國香織の小説をいくつか読んでみたことがあった。吉本ばななは結構好きなので、江國香織も好きになれるだろうと読む前は予想していたが、意外にもハマれなかった。ちょっと悲しかった。好きな人の好きな作家を好きになれないのはすれ違いの切なさがある。

二人の小説にそこまで違いはないと思っていたのに、やはり違いに引っかかったのだろうか。それとも別の理由があるのか、どうしてなのだろうと考えた。そのとき自分なりに出した結論としては、好きになれるタイミングで読んだか読んでなかったかの違いではないかとなった。

私は大学生の頃、吉本ばななの小説をまとめて読んでいた時期があった。それまで女性向けだと思ってなんとなく避けていた吉本ばななだったが、思いきって何冊も読んでみたら好きになれた。読まず嫌いはよくないなと思ったことを覚えている。若さには受け入れる柔軟さがある。おそらくだが、その頃に江國香織を読んでいれば、彼女の小説も好きになれたのだろう。読んで好きになれるタイミングで吉本ばななと出会えたことが幸運なのだ。そう思っていた。

ここまでは昨日の話。もしかしたらと思い立って、今日は久しぶりに江國香織の小説を読んでみた。近頃は本屋に行くこともないので、部屋にある本を読み返すことが多い。久しぶりの江國香織は意外と読めた。自分でも読めることに驚いた。年齢は関係ないのだ。それまで信じていた予想が外れて、うれしいようながっかりしたような。しかし好きな人の好きな作家に好感を持てたことは素直にうれしい。ほどけた糸が再び結ばれたような気分で、なんだかホッとした。

という、出雲にっき吉本ばなな江國香織門前亜里と巡って自分を振り返る、とりとめのない話でした。

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