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外見に対して言及することについての議論で坂上忍が全然ピンときてなかったやつ

先日ボーッとテレビを見ていたら(バイキング)、にこるんが全く関係ない芸能人の熱愛報道の中で「藤田ニコル似の美女」と表現されたことと、ネットで「にこるんは美人じゃないでしょ」的論争の二次被害にあっていて、それについて「やめてほしい」と発言していたことがニュースになっていた。

そこから、外見について過剰に言及することとか、「ブス」「美人」と表現することへの議論がされており、楠田枝里子さんが「美人と表現することが悪いのではなく、美人〇〇(アナウンサーなどの職業)という表現は、差別につながる可能性があるので配慮が必要」的なことを言っていて、確かにな〜と思った。(例えば、男性アナウンサーを美男子アナウンサーとか表現することはあまり無い)

これに対して、坂上忍さんは全然ピンときてなくて終始納得いかないような態度をしていて、議論もかなり盛り上がっていた。

ブラマヨの吉田さんも「初見で俺のブツブツいじらんかったら、そこが気になってその後の漫才入ってこんやろ」的なことも言っていて、正直わたしはこれも「ちょっとわかる…」と思ったのでした。


テレビをずっと見てきたから思ったこと

確かに人には見た目の第一印象ってものがあり、肌が綺麗な人には肌が綺麗だなって思うし、肌がブツブツだとブツブツだなと思うし、その先相手のひととなりを知るまでその印象は多少なりとも残ると思う。

漫才のように数分で自分を知ってもらい、グッと心の距離を縮めて笑いにつなげるっていう作業の中で「わかりやすさ」はとても大切であり、「笑っていいんだよ〜」と教えてくれている、そのルックスに対する自身での表現はいるよな。というのは素人ながらにわかる気がする。

一般的にはマイナスな印象の要素を、自分で笑いに変えられる=自分で自分を受け入れられているということなので、自信のないわたしはその部分にも憧れたりする。

でも、一方でそういう外見に言及するやり方をしない人もいて、というか今はきっとそれが主流で、「え、いちいち外見について触れなくてもいい世界って最高やん」とも思ったりする。

きっとこの今の主流のやり方(外見に言及しない)では、自分が信じてやってきたもの(外見について触れることによって分かりやすく、見やすくする)を否定されているような感覚が生まれる?ので、どうしても受け入れたくない気持ちになるのかなとテレビ大好きっ子のわたしは思ったのでした。

自分が信じてやってきたことを手放す恐怖

例えば、わたしが超必死で運動や食事制限をして、がんばってワールドワイドビューティーな超スリム体型になり、それをさらにがんばってがんばって維持して50歳くらいになった時に

「え?まだスリムとかやってんの?時代はふくよかでなんぼなんですけど?」

と言われ、「ふくよかになれ!」という空気を感じたら、それを簡単には受け入れられず更なるスリムボディを目指してしまいそうな気さえする。

それは、スリムボディという見た目に固執してるというよりは、信じて努力してやってきた過去の自分の生き方や積み重ねた時間を否定することになりそうという“恐怖心“からなのでは無いかなと思った。

常に自分で考えるしかない

私たちが日常生活でできることに置き換えてみると、

「そんなに仲良くない人の見た目について勝手にジャッジして伝えたりしない」ってことなんじゃないかなと思っている。今のところ。

それはイケメンや美人でもそうじゃなくても、初対面で外見に対して過剰に触れなくていいっていうことで、もっと他の内面的要素で相手との距離を縮めたりなんなりしていこう。という風に前向きに捉えられるのではないかなと思う。

お互いについて散々話して内面を知っている仲になれば、外見も含むその人となりについて表現することになるし、そこはお互い信頼関係を構築していくことの方に意識を向けるのが良いと思う。

でも実際に突然目を見張るほどの美人が現れたらわたしは「美人だ!」と思うと思うし、かっこいい人には「かっこいい!」とかポジティブな気持ちは言いたくなるので、発言する際はその時の状況や関係性、気温とか湿度も考慮して常に自分で考えて自己責任で発言しよう…と思った。

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