エルシネ・太陽


 14歳の夏、初めて先生に反抗した。

 隣町の臨海中学のプールサイド。

 水泳の市大会の最中だった。

 9月で、とにかく暑くて、太陽が真っ白に輝いていたことを覚えている。

 プールではメドレーリレーの予選をやっていた。

 僕たちは、いきなり、副顧問の新任教師に怒鳴られ、フェンスに引っかけたブルーシートで作った日陰の陣地から、プールサイドの焼けたコンクリートの上に引っ張り出されたのだった。

「お前ら、応援せえへんのやったら帰れ」

 確かに、チームメイトが泳いでいたのだから、今から思えばこの先生の言うことは特別に間違ってはいないと思う。

 だけど、そのときその瞬間の僕には、なんだかひどく理不尽な気がして、その言葉はどうしても受け容れられない、かたくなに拒否しなければならないもののように思えたのだった。

 それには自分なりの理由もあった。

 この教師が入ってくるずっと前から、この水泳部には暗黙のルールとして、競技を控えた選手は、自分の試合に集中するために、他の人の試合を応援しなくてもよいというようなものが、なんとなくだけど、確かにあったのだ。

 だからこそ、数十分後に「100メートル背泳」の競技を控えていた僕は、ブルーシートの日陰でカロリーメイトをかじりながら体力温存を図り、少年ジャンプなどを見て「勝利」へのイメージトレーニングをも図っていたのだ。

 部の伝統を知らないこんな新参者に怒られる筋合いなどない、というのが、そのときの反抗の怒りの根本にはあった。

「帰ろうぜ」

 僕だったか、誰だったか忘れた。誰がいうともなく、そう言い出した。僕と、きみお、正彦の三人だった。

 もう一人、俺も帰るわと言って荷物をまとめだしたのがいた。

 そいつはタダシといって、件のメドレーリレーに出ていた男であって、全然帰る必要のない奴であったが、なぜか、いつの間にかもう着替えて帰りじたくを始めており、なんとなく帰ることになってしまっていた。

 タダシは泳ぎは速かったが、変わり者だと思われていて、頑固で不器用な奴だった。

 親しい友達は少なかったが、不思議と僕とはウマがあった。

 きみおは日頃からエエカッコしいで文句言いのとこがあって、前からこの先生のことが気に入らないと言っていたから、こうやって反抗するのはわかるのだが、もう一人の正彦はのっぽで色の白い、生真面目なメガネ君で、彼が一緒に抜けて来たのは少し意外な気がしていた。

 4人はとりあえず一緒にエスケイプして、自転車に乗って帰った。

 校庭にかためて停めてあった自転車に乗るとき、正彦が学校指定の白いヘルメットをかぶろうとしたのを、きみおが笑った。

「もう、ええやん、そんなもん、かぶらんでも」

 そうだそうだと、僕たちは白いヘルメットを前カゴに放り込んだ。

 タダシは電車で来たから自転車がなくて、きみおの自転車の後ろに乗っかった。

 僕はあの若い先生が追いかけてくるのではないかと思って、そっと振り返った。

 木立を隔てたプールからは変わらぬ喚声が響いてくるだけで、だれもこっちを気にしている人はいないようだった。

 まず僕たちが4人が向かったのは「メンスト」と呼ばれる、西明石の駅の裏のさびれたショッピングセンター、「明舞メインストア」だった。

 僕たちはジャージにゼッケンのついた体操服という姿で、2階の薄暗いゲームコーナーに入っていった。

「俺、財布持って来てないわ」

 きみおが言うと、タダシが「自転車乗せてくれたお礼や」と言って、50円玉何枚かを、きみおに渡した。

 僕らは30分ぐらいかけて、それぞれ50円玉を何枚か、あるいは十何枚かづつ浪費したあと、最後にタダシのおごりで、4人で「エルシネマリアッチ」という西部劇のゲームやった。

 当時としては非常に画期的な、4人同時プレイできるゲームだったが、ナムコの「ガントレッド」(ファンタジー風)やセガの「カルテット」(SF風)のパクリだと正彦が教えてくれた。

 ディスプレイも筐体も大きく、ジョイスティックも四人分ついていたが、それでも中学生2年生男子が4人でやると窮屈だった。

 とにかく、塩素臭いからだを押し合いへし合いしながら、肩をぶつけながらわあわあ言いながら4人で場末のゲーセンで騒いだ。

 4人のガンマンは、どんどん西部の街を、悪漢を打ち倒しながら進んだ。

 数百円を費やしたが、初めてのプレイであるにも関わらず、驚くほど先まで進んだ。

 きみおは、「またこの4人で、ここで、このゲームをやろう!」と興奮気味に繰り返した。

 僕たちも「そうだそうだ」と興奮気味に言った。

 それから、僕たちは自転車で近くの海へ行った。

 丘の上から見下ろすと、正式な海水浴場でもないのに、砂浜には脳天気な家族連れや、パラソルや、ビーチボールや浮き輪や海の家なんかひしめき、その向こうに思ったより青い海、さらに白いかすみのむこうに巨大な鯨のような影をたたえた淡路島がドーンとそこにあった。

「泳いで淡路まで行けるかな」

 僕はつぶやいてみた。

 この海岸から島の北端まで2キロぐらいだ。

 いつも毎日練習で6キロは泳いでいるから、行けないことはないと思う。

「無理やな。お前は海の恐ろしさを知らへん」

 海辺の育ちであるタダシが言った。

「行けるよ。淡路島まで」

「やめろって。明石海峡の潮はものすごい速いんや。死ぬって」

 僕とタダシのやりとりを聞いて、きみおが間に入った。

「じゃあ、とりあえず、あのテトラまで、誰が一番にいけるか競争しようや」

「何か賭けようや。カセットとか」

「ファミコン?」

 正彦が不服そうに聞いた。

 彼はファミコン派ではなく、二大派閥のもう一つ、MSX派だ。

「じゃあ、ファミコンでもMSXでも、セガでもなんでも。他の3人が金出し合うて、欲しいの買うたらええ」

「よし。それでいこう」

 僕たちは自転車を止めて、海岸に降り、熱い砂の上で体操服とジャージを脱いだ。

 それぞれの色に日焼けした体にお揃いの競泳用の海パン。

 ゴーグルはそれぞれ微妙に違っていた。

 僕もゴーグルをはめようと思ってバッグを探したが、みつからなかった。

 どうやら試合会場に忘れてきたようだ。

 今更取りにも帰れない、というか、このまま水泳部を辞めてしまうのであれば、あのゴーグルは二度と戻ってこないかも知れないのだな、と漠然と思ったりもした。

 タダシが砂浜に線を引いた。

 4人はそれぞれ、位置について構える。

「用意、ドン」

 怒号とともに、僕たちは、数百メートル先のテトラポット目指して砂浜を走り出した。

 僕は目指すのはあのテトラポットじゃない――絶対にその向こうの淡路島まで泳ぎ切ってやろう、と思った。


 この競争で、テトラポットに一番乗りしたのは、僕だった。

 勝因はよくわからないが、ゴーグルがないので、クロールじゃなくて、顔を上げたまま「抜き手」で泳いだのがよかったのか。

 とにかく、僕が一番にテトラポッドに意気揚々と登ったのだった。

 ところが、テトラポットに登るとき、右の太ももにチクッとしたものを感じた。

 それはたちまち燃え上がるような激しい痛みになり、僕の右足は真っ赤にだんだらに腫れ上がってしまったのだった。

 当然、淡路島どころではなく、ウンウン言いながらも、とりあえずは他の3人と一緒に、自ら泳いで海岸へと戻った。

 それから先は全く何も憶えていない。他の3人は暗澹たる思いで僕をとりあえず近くのタダシの家まで送ることになった。

 正彦が僕を後ろに乗せ、僕の自転車にはタダシが乗って、とにかく3人で僕を家まで運んでくれたのだった。

 当然、試合のエスケイプは親たちの知るところとなった。

 あとで知ったことだが、タダシはそのときまで自転車に乗れなかったらしくて、タダシの乗って帰った僕の自転車は何度も転んで、篭とか面とかがボコボコになっていた。

 そのまま僕は丸一日寝込んだあと、右足の腫れは引いたが、その時から全身アトピー体質になってしまい、よく発疹が出るようになった。

 僕はそのまま水泳部を辞め、正彦も辞めた。

 タダシときみおは他の部員に説得されて一旦は戻ったそうだが、結局二人とも辞めてしまった。

 正彦は色の白いやせっぽちのメガネ君だったのが、だんだんと太って色の白いでぶのメガネ君になった。

 きみおはだんだんとリーゼントの不良になり、タダシは受験塾に通い始めて、4人はしだいに疎遠になり、別々の高校に進学した。

 結局、1位の賞品のカセットはもらえなかったし、いっしょにあのガンマンのゲーム、「エルシネマリアッチ」を4人でプレイすることもなかった。

 薄暗いゲーセンで「エルシネマリアッチ」を4人でプレイしたあと、外に出た僕たちの目に、1986年の真っ白な太陽が眩しかった。

 それは奇声をあげながら波打ち際を走る4人の上にもあったし、正彦の自転車に乗っかってウンウン唸っている僕の上にも、白く静かに燃え続けていた。

 あんなに真っ白で大きな太陽は、あれ以来、二度と見たことがない。


2004.11.13

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