冷めたコーヒー

*朗読用の小説です。
コーヒーのお話をしていたら喫茶店の話が書きたくなって、気付いたら書いていましたが……なんでこうなったのかわかりません。
よろしければご自由にお使いください。


 冷めたコーヒー
 
 駅を出た私の背後で、汽笛は薄く雲を漂わせた空に向かい、鳴り響く。旅立つ機関車の姿を、私以外に見送るものはおらず、乗り降りする人影さえいなかった。
 忘れられた街とは、こんなものなのだろう。
 瓦礫を避け、もしくは革靴で踏み、杖をついて広場を進む私は、どこか異邦の探訪者にでもなった気分で胸の奥に呟いた。
 記憶にある故郷とは、それほどまで違ってしまう。
 私の上着に収めた、一冊の手帳。そこに挟んだ写真の中で、この駅前広場はずっと精彩で、雑踏と活力とに満ち溢れていた。
 切り取られた過去の一瞬。私が、この街を離れようとする瞬間を収めた、たった一枚。
 その面影は、最早どこにもありはしない。街だけでなく、私にも。
 以前は行きつけだった本屋が倒壊している道に、こつりこつりと杖の音が響く。ふと視線を巡らすと、ひび割れた車道の真ん中に一台のピアノが、所在なさげに転がっていた。埃混じりの風が線を揺らすのか。
 時折、旋律に鳴り切らない音色を響かせては、風の中へと溶かしていった。奏者のいない、風化してゆくだけの演奏会。
 その様子が、いやにこの街の行く末へと重なってしまう。
 こんな街に宿があるのか。その当面の目的を私に思い出させたのは、罪悪感に違いない。
 道の先へ、兵士の一団が集まっているのが見えた。彼等の側も、とっくに私の存在へ気付いていたらしい。今歩くのは、すでに向かってきている彼等に任せ、私は上着のポケット越しに、身分証の重みを確かめた。
 やがて来た二人組の陸軍兵。背後にもう四名が控えているものの、近寄らないのは警戒心の表われだ。応対はこの二人に任せ、残りはそれとなく左右に広がり、じっと私を見据えている。
 彼等が憲兵であることは、たとえ腕章がなくともこの身振りでわかったはずだ。礼節こそ保ちながら、どこか機械的で冷たい眼差し。不穏な動きをすれば、即座に射殺することも厭わない、と。
 それでも一応、私が身分を明かしたことで、少なくとも射撃の的にはならず済んだらしい。態度こそあまり変化はないにせよ、目の前まで来た二人組は、階級という規律をもって私に敬礼を行なった。
「ホテルの類は、もうありませんね。我々の宿舎でよろしければ、お連れします」
 事情を語った私へ、一人がそう申し出た。
 ならば夜を過ごせる店はないか。私が続けて尋ねると、彼は初めて人間的な困り顔を浮かべ、ためらいがちに、ある店のことを口にした。
「行かれるのでしたら、お送りしましょうか?」
 ここでも階級によるものだろうか。申し出を、私は杖を持たない方の手を挙げ、やんわりと断り、瓦礫の道へと踵を返す。
 憲兵に思うところがあるわけではない。教わったその店が駅前に、ちょうど私が出て来たのとは反対側の広場にあるというので、ならば歩いたとしても大した距離ではないと。ただそれだけのことだった。
 道を引き返している間、風鳴りともつかない壊れたピアノの、あの旋律が。私の胸を、いやに苦しく絞めつけた。
 なら、どうすればよかったのか。
 瓦礫の中、風がつまびくピアノへと、私は反論し背を向けている。
 
 
 
 風化してゆくだけに見える駅前で、驚くべきことにその店は壊れることなく、内装に至ってはドアベルすら欠けずに残っていた。
 先ほど憲兵に教わった、この街で唯一の夜を明かせる場所。
 酒場というには趣が違う。喫茶店と呼ぶべきだろうし、実際、人の気配がなくとも清潔な店内では、コーヒーの匂いが鼻腔をくすぐる。
 インスタントではない、本物の香り。ただし、先の憲兵たちを除いてほぼ無人とも言える瓦礫の街に、そのこだわりはどんな意味があるのだろう。
 いや、意味というなら、ここに店を構えることさえも。この老人は、何を想ってまだ店を続けているのだろうか。
 そう、老人だった。
 カウンターの向こうで、キッチンに向かっている初老の男。いざ席につくと、窺えるのは後ろ姿だけなのだが、それにしてもしゃんと伸びた背筋に、ある種の誇りのようなものを宿している。
「パイロットかね」
 やがてコーヒーを差し出した老人は、私の顔を見るなり尋ねた。
 なぜ、という問いを返すより早く続ける。
「空に魅入られてしまった目は、いつだって遠くを見るものだよ」
 老人の主張は、的を射ていた。
 私はパイロットだ。いや、パイロットだった。撃墜数からすると、エースと呼ばれる地位にいた。
 その頃の功績により、私は将校となり、今は退役中佐として先ほどの憲兵からも敬礼を引き出した。
 当時からまだ半年と経っていないのに、ひどく遠い過去の栄光に思えてしまうのは、杖がなくては満足に歩けもしない、私の足のせいだろう。
「飛びたいものだな」
 まるで私の胸中を見透かしたように、老人は言った。
 実際のところ、彼は私にではなく、彼自身に対して呟いたのだろう。
「あなたも空軍に?」
「まあ、そんなところだね」
 それから老人は、ある部隊番号を付け足した。私の知らない隊の名だった。
 一方で、私が口にしたかつての所属部隊の名も、老人の知識にはなかったらしい。
「わからないな」
 と、かぶりを振った老人は、それでも今までよりいくらか親近感が増したように思えた。
「最後に飛んだ頃のことを、覚えていますか?」
 気付くと、私はそんな質問をしている。親しみを覚えているのは、たぶん私の方なのだろう。
 老人は記憶を辿るように、ふと目をつむって、それから言った。
「どこまでが最後と言えるかな。単に飛んだというなら、半年前だ。この街の空を飛んだよ」
 それを聞き、コーヒーカップに伸びた私の手が止まる。
 嘘を語っている気配はない。とすれば、事実なのだろうか。
「私もそこにいました。そこが最後の空です。撃墜されて、今はこの有り様ですが」
「そんなものだよ。いつかは墜ちる。誰かに墜とされるか、それとも時間が翼を奪うか。あの時は無我夢中だった」
 老人は目を細めた。彼が言う、空に魅入られてしまった眼差しだ。
「この街の外れに、小さな飛行場があったんだ。初等訓練で使うものだよ。私は、もう退役していたがね。この街が空襲された日に、もう一度だけ空に上がったんだ。四機だけ、私にも使える機体が置かれていたものだから」
 本来、その機に乗るべきだったパイロットは、流れ弾によって飛び立つ前に死んでいたのだと。
 老人は付け足し、続ける。
「身体は覚えていたものだ。何機落としたかはわからない。敵も味方も入り乱れて……夜が明ける頃、ようやく空襲が終わった時には、一緒に空へ上がった三人の姿もなくなっていた。私は一人で、滑走路になんとか降りてね。いや、あれはほとんど墜落だったかな」
 そう言って、老人は苦笑しながら、右目の下を指でなぞる。深々とした傷跡。
 着陸の際、前輪が折れて機体がバランスを崩した。その衝撃で、機材の一部が彼の顔を裂いたという。
「あれだけ飛び回って、結局、守れたのはこの店くらいだ。元は家内がやっていてね。今となっては、私しかいないのだが」
 寂しげに呟くと、彼はこう付け足した。
「あんたは、なぜこの街に?」
 老人が話題を変えたのはわかっても、追求する勇気のない私は、端的に応じる。
「故郷だったんです。あの戦争が起きる前まで、私もここに住んでいました。……せめて、復興を手伝えたらと」
 最後に、今更だと思いますが、と。
 私は付け加えるように言って、コーヒーカップを持ち上げた。すっかり冷めてしまったそれを、震える手で流しこみ、料金分の紙幣を置く。
「空を知ってしまったら、地上は中々見えないものな。こればかりはお互い様だよ」
 呟く老人に向け、私は軽く、しかし自然と出た会釈で敬意を示し、店を出る。
 ここで夜を明かすという選択肢は、すでに私の中から消えていた。気が引けるとしても、憲兵隊の宿舎を借りる他ないだろう。
 少なくとも、あの老人のあの店に、私は居ていい人間ではないのだ。罪悪感と、加えて恐怖が背中を押した。
 半年前の、この街の空で。私はあの老人に会っている。
 鮮明に覚えていた。覚えざるを得なかった。
 尋常ならざる速さと機動。機体が無事だとしても、およそ人体が耐えられるとは思えない。そんな飛び方をする、ひとつの機影。
 四機だけ上がって来た旧式戦闘機の、そのうちの一機がそれだった。振り払うことも出来ず、ましてや反撃の隙など見出し得ない、凶鳥のような私の敵機。
 お互い様だよ、と。
 あのひどく物悲しい老人の言葉に、コーヒーの味は途方もなく苦く残る。
 帰ってくるべきではなかったらしい。半年前、私は確かにこの街の空を飛んでいた。
 生まれ故郷を爆撃したその矢先、私は敵機に撃ち落とされた。あの老人こそが、私を撃った凶鳥に違いなかったのだ。

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