クリエイターエコノミーについてのメモ
現代社会はクリエイターエコノミーの成れの果てではないかという話
クリエイターエコノミーとは何かを考えていたが、実のところ現代社会がクリエイターエコノミーそのものではないかというところに行き着いた。誰かが何かを作って(価値を生み出して)、それを別の誰かが購入して利用することで経済が回るということをクリエイターエコノミーというならば、現代社会はその際たるものといえそう。
他方で、現代社会は複数人(それも数万人以上の単位)の協業を前提としたクリエイターエコノミーとなっているため、個人個人がクリエイターエコノミーに参加しているという認識は当然ながら薄い。
ハードウェアにしろソフトウェアにしろ、現代で使われている多くのモノを作るためにはたくさんの人手が必要で、その流通や販売に至る全てのフェーズでとても多くの人が関わっている。
その結果として分散化されたタスクだけが残り、個々人においてクリエイターエコノミーに参加している実感はなくなっていく。
個人としてのクリエイターは商品化されるかパトロンに頼るしかなかったスマホ以前の話
商品化の代表が芸能人。事務所によって商品化されブランド化することによって商品価値を高め、商品価値がなくなったタイミングで引退となる。これは別に悪いことではなく、一人の力では限界がある部分を事務所という資本によってエンハンスし、クリエイターそのものの価値を高めていた。
商品化ではないアプローチのひとつがパトロン。相撲のタニマチなどが代表的だが、芸術分野にも(表には出ていないだけで)多数のパトロンがいるのは事実。
商品化とパトロンには共通の問題がある。つまるところ、スポンサーには逆らえないという当然の話がのしかかり、ゆえに本来的なクリエイティブの活動ではなく、スポンサーが求めるクリエイティブになっていく。
経済合理性からいえばそれに問題はないが、世の中の面白さという観点でいえば多くの損失が出ていると個人的には考えている。(他方で、制約からくるクリエイティブが存在するのは事実であり、このプラスマイナスがどちらに傾くのかは正直なところわからない)
また、事務所に所属することはパトロンが見つかることは、運の要素も大きい。実力だけでそこにたどり着けるわけではなく、家柄や住んでいる場所、交友関係などなど、自分で変えられない部分が大きく影響する。としたときに、失われてしまった才能がどれくらいあるかは私には想像できない。
テクノロジーによって個人がエンハンスされ、少数のクリエイターによってクリエイターエコノミーが作れるようになった近年の話
プログラミングでいえばGCPやAWSといったインフラソリューション、RailsなどのWebアプリケーションフレームワークなどによって、2000年台前半には数百人単位で作っていたものを一人でも作れるようになった。デザイン領域でもソフトウェアの進化によってクリエイティブの練度は日々向上している。1970年代のポスター程度であれば、ほんの5分程度で作れてしまう程度にはテクノロジーが進歩している。
リアルなモノ分野においても、多くのSaaSやAmazonフルフィルメントのような物流ソリューション、工場への直接発注などによって、個人であってもモノを作って倉庫に保管し配送するといったことを簡単に行えるようになった。
だからといって個人の時代が完全に到達したかといえば、全くもってそうではない。
大きなモノを作るには多くの人手が必要という真理
小さなインターネットサービスであれば一人で作ることは可能になったが、ファイナルファンタジーのようなゲームを一人で作り切ることはまだ不可能に近い。寿命が多分足りない。ゆえに、一定以上の大きさのモノを作る場合には、相変わらず多くの人手が必要となる。多分この事実は今後も一生変わることのない真理といえる。
個人が戦えるのはいずれにせよ限られた領域しかないのではないかという仮説
上述のように大きなモノを個人で作ることは難しい。他方で、テクノロジーによるエンハンスの影響はとても大きい。
この観点で使えそうなのが狩野モデルによる品質の分類で、世の中が求める品質に対して個人だけでは提供できないものは何かという視点だと考えている。
たとえば物流。Amazonフルフィルメントを使えば、Amazonで購入する時とほぼ同じスピードで顧客に納品することができる。つまり、ここにおいては当たり前品質どころか魅力的品質すら(即日配送など)簡単に満たすことができる。
ソフトウェアのUIなども、標準コンポーネントの(例えばSwift UIのような)進歩によって、ある程度誰が作っても質の高いUIを作ることができるようになっている。
他方で個人で会計ソフトを作ったとしたら、毎年の法改正への対応が追いつかなかったりして、当たり前品質すら満たせないケースも出てくる。サポート対応なども、世の中の基準が上がっていく中で当たり前品質を担保することすら難しい。
ここで考えられることは下記の二つ。
世の中が求める品質は上がり続けるが、一定地点以上の上がり方は緩やかになる
テクノロジーの進歩によって当たり前品質を達成しやすい領域と、テクノロジーが進歩してもそれらを達成し辛い領域がある
さらにここから導き出されることはこの二つ。
世の中が求める品質の向上とテクノロジーの進歩はイタチごっこだが、どこかのタイミングでテクノロジーの進歩が追いつく
テクノロジーの進歩によって個人も集団もエンハンスされた場合、労働集約的な部分が勝敗を分ける領域は数多くある
としたときに、エンハンスされた個人(=狭義のクリエイター)を中心とするクリエイターエコノミーが成立する分野は比較的限定的ではないかと考えている。
クリエイター同士の協業はどの程度行われるのか
DAOと呼ばれる形態が今後流行っていくのは不可逆だと考えているが、他方でクリエイター同士の協業はどう行なっていくのがベターなのだろうか。
例えば芸能人においては事務所の存在が芸能人個人から煩わしい仕事を巻き取り、それによって本来の商品価値を高めることに集中できている。他方で今後分散化が進んだ場合、個人対個人の交渉や契約が中心となり、その負荷は想像以上に高い。としたときに、結局のところ事務所のような存在がある程度必要悪として残ることは想像に易い。
また、一人では実現不可能なプロジェクトがあった場合、どのように協業していくべきなのだろうか。この部分においても、結局のところ組織のようなものが必要であって、個人対個人が円滑に進むための仕掛けとして、結果的には組織に依存する個人という形にならざるを得ない部分も大きいと考えられる。
狭義のクリエイターの収入源は何になるのか
これまで通りの商品化の対価およびパトロンからの収入がメインになることは変わらないと考えている。
他方で、パトロンの分散化が起こるというのも不可逆ではあると考えている。多数の薄い支援者が直接支援していくような社会構造になっていくとは考えていて、直接的な投げ銭や商品の直接購入が増えていくのは予定された未来のように思える。
狭義のクリエイターではない個人はどうすれば良いのか
私の一番の興味範囲はここ。私自身が狭義のクリエイターではないこともあり、どうすれば良いのかを考えておきたいというモチベーション。
現代社会をクリエイターエコノミーと見立てたときは、多くの個人は分散化されたタスクに従事することになる。伝票を見て会計ソフトに入力するだけの仕事だったり、リストに従ってひたすら電話をかけるだけの仕事だったり、そのような分散化されたタスクが世には溢れている。
この分散化されたタスクは年々粒度が小さくなっていて、もはや何のためにそのタスクをこなしているかを個人が把握することすら難しくなっている。
この状態は健全ではないと考えていて、何かしらの変化が必要だと考えているが、狭義のクリエイターエコノミーの延長にそれがあるイメージがあまり湧いていない。
トークンエコノミーの文脈で語られるのは、例えばファンが勝手にファンサイトを作ったりしてその貢献によってトークンが与えられるとか、プロモーションに貢献した対価としてのトークン付与などによってファンもクリエイターエコノミーに参加していく、、、みたいな話だが、このような参加ができる個人はとても少ないと感じている。
つまるところ一般人である私たちにできることはリツイートしたりするのが関の山であって、日々の生活にプラスしてファンとしての活動を行うほどの余力はなさそうである。少なくとも、ファンとしての活動による収入で生活できる程度の可能性がなければ。
とすると、技能を持った一部のファンにおいてはこれまでとは違う形の収益の獲得が可能になるとしても、多くの一般人においてはUberEatsで配達したお金をもとにクリエイターを支援していくといったディストピアが広がっていきそうな気がしている。
多分このディストピアにおいては、解体された中央集権的な企業に属していた多くの一般人が含まれる形となり、多くの人間にとっては他人事ではない。
とりあえず浮かぶままに書いた。こんな感じの話をゆるっと議論してくれる人を探しているのでお気軽にご連絡ください!
まいにちのご飯代として、よろしくお願いします。