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メタバースに資本投下すべきなんだっけという問題提起

メタバースについて真剣に考えてみた結論として、この分野に資本投下していくことに対しての違和感が拭えなかったため、問題提起としてこのエントリを書く。


世の中に新しい技術や新しい概念が出てくるときには、何かのアンチテーゼとしてそれらが生まれてくることが多い。例えば「飛行機」は「飛ぶことが出来ない人類」に対してのアンチテーゼだし、「電子メール」は「物理的に手渡すしかなかった文章」に対してのアンチテーゼだ。つまるところ、何らかの不便な現状を解消するためのアンチテーゼとして新しい技術が生まれ、そこに資本投下され、世の中がよりよくなっていく。

メタバースと同じ文脈で語られることの多いWeb3.0は、「中央集権型社会」に対してのアンチテーゼであり、スノーデン以後問題視されることの増えた中央集権型社会の危うさを克服するための手段としての「分散型社会の提案」と捉えることができる。

では、メタバースは何に対するアンチテーゼなのだろうか。これは当然ながら、「現実社会」である。つまるところ、現実社会よりも生きやすいデジタル空間を生み出すことができれば、それは人類にとって幸せなことではないか、という思考が根底にある。

この理論は間違いなく一利ある。現在の社会では見た目(容姿だけでなく、目や肌の色、性別など)によって不利益を受けることも多いが、アバターを中心とするデジタル空間においては見た目の不利益は起こりようがない。また、デジタル空間故に言語の壁を乗り越えるのも比較的容易である。他にもデジタル空間ならではのメリットがあることを考えると、現実社会よりも住心地の良いデジタル空間が出来上がっていくこと自体に異を挟む理由はない。

だが、冷静に考えてみてほしい。誰もがフェアに生きることの出来る現実世界を作ることに、資本や労力を投下すればよいのではないだろうか。

メタバースを現実世界のアンチテーゼと捉えた時に、デジタル空間の住心地を良くしていくというアプローチは、何かズレていないだろうか。

国土や法規制という制約なくインターネット上に新しい国を作るという観点でみると、プラットフォーマーにしてみればまたとないチャンスなのは自明なのかもしれないが、それを作るための資金、人的コストを現実世界をより良くすることに回せるとするならば、私たちが生きる世界はもっと生きやすいものになるのではないだろうか。

超一流の人材と何兆円ものお金を使って生み出すものが、自分たちがより多く儲けるためのデジタル上の国というのは、お金や人材の使い方としてとても勿体ないなと、視野を広げて考えた時に思う。



P.S. デジタルとリアルがもっと融合して面白い社会になっていくと良いなと個人的には思っているアカウントがこちらで、気軽に話しかけてもらえると嬉しいです。


まいにちのご飯代として、よろしくお願いします。