【本とエッセイ#1】8年目の変化      読んだ本:『ユマニチュード 認知症ケア最前線』

 この4月で、義母の在宅介護を始めて丸8年になる。それなりに長い時間、在宅介護をしていることになるが、このタイミングで、「ユマニチュード」についての本を手にとった。
 「ユマニチュード」というのはフランス発祥の認知症ケアの技法のことで、「人間らしさを取り戻す」という意味の造語だそうだ。そういうケアの技法があるらしい、というのは前から見聞きしていて気にはなっていたのだけど、がっぷり取り組んではこなかった。単純に、ここ数年は乳幼児の育児と介護の同時進行で余裕がなかったということもあるけど、どこかで、自分のケアに対する姿勢を揺らされるのが怖い、という気持ちも交じっていたと思う。
 
 今、ユマニチュードについての本を読んでみようという気になったのは、上の子が小学生になって少し時間ができたこともあるけど、義母の介護に行き詰まりを感じた、ということもある。
 8年間の介護の中で、何か物事が大きく好転した、というようなことはなかったが、物事が急激に悪い方へいくということもなかった(一度だけ、義母の右足の血管が詰まりかけ、ステントと呼ばれる金属製の網状の筒を入れ、狭窄した血管を広げる手術をしたが)。介護は私の生活の一部になり、一日に何度も用事の途中で呼ばれようが、敷物や掛け布団まで排泄物まみれになろうが、ひとたび介護にとりかかれば、いかに手早くその場を収集するかということに意識を切り替えた。そして、原状回復したことに満足し、義母の部屋を出る。その間、義母との会話らしい会話は成り立たなくなってきていたけど、そこに意識を向けないようにしてきた。

 今回読んだのは、望月健著『ユマニチュード 認知症ケア最前線』だ。著者が制作に携わった3本のテレビ番組の取材を通じて得た知見や体験をまとめたもので、「ユマニチュード」の考案者であるイヴ・ジネスト氏や「ユマニチュード」を日本の医療現場に導入した本田美和子医師に取材し、「ユマニチュード」の基本的な技法の解説、そして実際のケアの現場でその技法が当事者や家族にどのような変化をもたらしたのかが書かれている。

 例えば、その変化とは次のようなものだ。

 二人の看護師が入浴介護をしようとするのを、絶叫しながら拒絶していた女性が、切々と自分の細やかな感情のありようを訴え、看護師とコミュニケーションをとりながらケアを受け入れていく様子。また、認知症の典型的な行動・心理症状である昼夜逆転や、日中、もうろうとして意識がまだらになるなどの症状が現れており、妻に対して声を荒らげ、攻撃的に話をするようなこともあった男性が、落ち着きを取り戻し、会話はほとんど問題がなくなって本人の人間性が再び花開いていく様子。そして、認知症が悪化し、寝たきりになるのではないかと心配されるような状態から、在宅生活に復帰できるほどの回復を見せ、介護にあたる妻との間でもやさしい言葉をかけ合うなどの穏やかさを取り戻した男性の姿。


 こんな風に次々と事例をあげていくと、つい、「奇跡」などという言葉を持ち出したくなるが、著者は、あとがきで次のような言葉を紹介している。

 魔法?奇跡?いえ技術です。


 これは、先にも述べた、イヴ・ジネスト氏と本田美和子医師の著書『ユマニチュード入門』の帯に書かれた言葉だそうだ。私には、魔法や奇跡は起こせそうにもないが、技術なら学ぶことができるかもしれない。また、本の中で、ユマニチュードはプロの介護者が身につけるべき、非常に専門性の高い技術も多くあるが、家族の介護をする人がちょっとしたコツを知るだけでも、認知症の人とのコミュニケーションが改善し、苦痛を伴うケアが楽にできるようになったという声が紹介されていたことにも勢いを得て、義母との会話らしい会話が成り立たなくなっていた私は、ユマニチュードの技法の最も基本的な4つの要素のうち、「見つめる」「話しかける」をやってみることにした。

 しかし、簡単そうなことが、やってみるとそう単純でないことがわかる。まず、目が合わない。始めは、こちらが視線をつかまえにいっても、義母の目が泳ぐばかりで、一瞬目が合っても、すぐにそらされてしまう。
 それに、話しかけるというのも、相手からの反応がなければ、なかなか続けられるものではなくて、本書にも書いてあったが、「天気と顔色を誉めたら、後は何を話していいのか、結構、行き詰ま」る。そこで考え出されたのが、「オートフィードバック」というユマニチュードのコミュニケーション技術で、これはつまり、「実況中継」をするように状況を説明する。例えばズボンを履き替えるときに、「着替えてサッパリしましょうか」「右脚から履きましょうね」「足、高くあげられていますね!」というような具合だ。これなら、目の前のことを言葉にしていけばいいだけだから、話かけ続けられる。


 この後に、「こんな劇的な変化がありました」ということを書けたら、文章としては収まりが良いのかもしれないが、何の専門性も持たないど素人の手探りの実践ですぐ効果が出ました、なんて話は、うさん臭い。実際、「見つめる」ことと「話しかけること」を実践し始めて約2週間だが、ドキュメンタリーの一角を構成できるような劇的なエピソードは、今のところはない。ただ、「引き」で見ていては分からないが、毎日接する家族から見れば分かる微細な、でも家族にとっては意味のある変化を感じている。

 それまで、「寝る前にパッドを交換する」という目的を果たすだけになっていた時間が、義母とやりとりしながら、寝る態勢をともに整えていく時間となった。今までは病院の消灯の時間のように、私が決まった時間に部屋へ行って淡々と寝る準備をし、電気をパチンと消していたのが、最近では、私が部屋へ行って話しかけると、義母が、「もう少し起きときます」と言って、じゃあ8時ぐらいに寝ましょうか、という具合に、相談して寝る時間を決めている。
 また、食事はこれまでも家族全員で集まって食べていて、子どもたちも義母に対して「おはよう!」とか「こんばんは!」と元気よく挨拶していたのだけど、それに対して義母は少しほほ笑み返すか、一言挨拶を返すかだったのが、この間は、孫の方をじっと見て、「挨拶できて、賢いね」と声をかけていた。誉められた下の子は、もじもじと嬉しそうだった。


 ここで、「ユマニチュード」という言葉の起源を思い出す。この文章の始めに、「ユマニチュード」とは「人間らしさを取りもどす」という意味の造語だ、と書いた。「人間らしさを取りもどす」のは、介護をされる側ばかりではない。これまでも、決して終始無言で介護をしてきわけではなかったけれど、幾ら話かけてもかんばしい反応が返ってこないことで、コミュニケーションをとろうとすることにどんどん消極的になっていた。だけど、義母との言葉のやりとりの回路が再び開くことで、私と義母だけとどまらず、他の家族とも気持ちの通い合う場面が産まれた。
 ケアをする、という行為は、一方が一方に与えるものではなく、お互いが人間性を取りもどしていく試みなのだろう。そのことに、今気がつけてよかった。


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