かわらないかわらなさ

 4年前から、「5年日記」を書いている。
 手元にあるそれをパラパラと開くと、1年目はこつこつと毎日書いている。2年目も、まあまあ。3年目でわかりやすく中だるみし、空白が目立つ。そして4年目でこれまたわかりやすく奮起してがんばって書いている。とりあえずの最終年にあたる今年は、今のところ毎日何がしか書きつけている。
 といっても、毎日こまめに書いているのではなく、10日分ぐらいをいっぺんに書く、ということはしょっちゅうだ。10日前に何をしたり、何を感じたり、何を考えていたかなんて、思い出せるわけがない。それどころか、おととい何をしていたか、昨日は何を感じていたか、今朝は何を食べたっけ?と、自分の記憶は全く当てにならない。
 そういうときは、スマホの写真フォルダや家族や友人知人とのLINEのやりとり、通話履歴、SNSの書き込みなどを見て、なんとかその日の断片を探す。それでも、何の記録もない日はあって、そんな日は書きようがない。別に、空白のままにしておいてもいいのだけれど、最近はそういうときには、その日に聞いていたラジオの内容や感想を書くという技を編み出した。ラジオだったら、大体各曜日で聞く番組は決まっているし、どんな放送だったのかも番組HPなどでふりかえることができる。ラジオの感想だらけの日記というのもおもしろいかもしれない。いったい、何のための日記なのかという疑問は残るが。

 ラジオの記録と化しつつある5年日記だが、これまでの4年間の内容は、だいたい子どもの話題が中心だった。日記を始めた4年前というのは、上の子が4歳、下の子がまだ2歳で、子の成長記録をつけようという思いもあったのだと思う。公園に行ったの何を食べたの、昼寝をしたのしないの、誰が泣いたの泣かないの、そんな日常のことがちまちまと書き込まれている。
 しかし、そういうことよりも何よりも、後で見返していて興味深いことがあった。

 先日、こんなことがあった。
 今、5歳の下の子が、夜寝た後で、「いたい~~~!」と唸りながら腹痛を訴えた。その日、預かり保育に迎えに行ったとき、給食の後からお腹を痛がっていたとは聞いていて、夕方に念のためにかかりつけ医に診てもらい、尿検査などするが異常なし。まあ様子を見ましょう、ということで帰されたが、夜になって痛みがぶり返したのだった。
 あまりの痛がりように、夫と二人で夜間救急に連れて行くべきかどうかなどを話し合ったが、その間も5歳児は体を折り畳んでお腹を手で押さえながら呻き続けている。預かり保育では看護師にちょっとお腹が張っているんじゃないか、と言われていたので、何度かトイレに促すが一向に出る気配がない。
 そこで、浣腸をした。ずいぶん前に買ったのが、どこかにあったはずだけど、と、台所の棚の上に置いてあるカゴの中を探ったら、一つだけイチジク浣腸が出てきたので、過去の自分グッジョブ!と心でガッツポーズをしながら浣腸をした(夫が)。
 ほどなく、お通じがあって、あっけなく腹痛も収まった。

 長くなったが、話を本題に戻そう。

 その腹痛事件があったのが3月3日。「子、腹痛。浣腸で解消。」と書き込んだ。翌日、3月4日の日記を見て心底驚いた。一年前のその日付の欄には、「子がお腹痛いと泣き出して、念のため診てもらったけど、たぶん便秘。とのこと。」と書いてあった。普段滅多に腹痛など訴えることなどない子が、たまに腹痛を訴えたその機会が、一年前のほとんど同じ日とは、どういうことか。
 さすがに、ここまでピンポイントで同じことが繰り返されるわけではないけれど、それでも、一年のうちの、だいだいこの時期になるとこういう不調が出る、ということはある。花粉症などは分かりやすいが、それ以外でも、ふりかえってみれば、毎年だいたいこの時期に調子崩しているな、ということがある。「なんとなく」は思っていたことが、記録にとっていたことで可視化されると、それぞれの体の刻むリズムの律儀さというか、デリケートさというかに感心する。感心するだけで、じゃあ前もって調子崩しそうなときに対策を講じなさいよと思うのだけど、いつも後手にまわってしまう。進歩がない。

 でも、私たちの日常は、どれだけ成長したか、どれだけ変化したか、どれだけ前進し、どれだけ進歩したか、ということだけで作られているわけじゃない。むしろ、どれだけ変わらないか、どれだけあいかわらずで進歩がないか、そういうことを日々繰り返している。進歩がないことを、「進歩がないなぁ」とぼやくのも、案外楽しい。


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