靴音と空のティッシュ箱

こどものころ、靴音を聞くのが好きだった。
ハイヒールで歩く音が好き、というのは、それほどめずらしいことではないかもしれない。でもそれが、細めのヒールよりは少し太めのヒールのくぐもった音の方が良いとか、革靴で細かい砂利を踏むときの音がたまらないとか、厚めのソールのスニーカーでかかとからアスファルトに着地するときの音を聞き逃したくない、となると、話は変わってくる。

マニアックな趣味を持つもの同士でも、つながろうと思えばつながることのできる今とは違って、90年代の小学生にとってそれはごく私的な、個人的な楽しみだった。誰かに共感してもらいたいという発想さえなくて、ただただ靴音を聞くのが気持ちよかった。当時のことを思いだそうとすると、前を歩く人の足首より下の映像が浮かんでくる。執拗に人の足下を見ながら、自分の足下からはどうも違う音がするなぁ、などと考えていた。どんな風に歩けば理想の靴音がするのかを、歩幅を調整したり、意識的にかかとから着地してみたり、歩調を早めたり逆に緩めたり、歩く時間は靴音の研究の時間だった。

それほど熱心に心を傾けていたことなのに、そんなことはすっかり忘れていた。なぜ今になって思いだしたのかといえば、朝から子ども同士が、「え、そんなことで??」という理由で喧嘩をするのをなだめていたからだ。子ども同士は、大人から見れば、ほんとうに些細だと思えることが喧嘩に発展する。今朝は、「食卓のティッシュ箱が空になった、新しい箱をとりにいこうと思っていたのに先にとりにいかれた」という理由で上の子がべそをかいていた。朝から快晴で、さぁ洗濯物を干すぞというタイミングで、そんな理由の喧嘩の仲裁で家事を中断されたことで、心の底から「そんなことで!」と思ってしまった。思っただけでなく、そんな事で喧嘩してくれるな…という気持ちがありありと態度に出てしまっていた。器の小さい親ですまない。

その後、晴れ渡る空の下で洗濯物を干しながら、そうえば小さい頃、人の靴音に執着していたな、と、唐突に思い出したのだった。それこそ、大人からしたら「そんなこと!」と言われてしまうことだっただろう。幸いというか何というか、当時の自分はそれを誰とも共有する気はなく今の今まで誰にも話したことはなかったから、大人に呆れられたりせずに済んできたけど、自分のそういう変態的な執着をさしおいて、こどもに対して偏狭な態度をとってしまったことが、猛烈に恥ずかしくなった。

大人からしたら「そんなこと」でも、子どもからしたら死活的に重要なことがある。ティッシュがなくなる瞬間にたまたま立ち会うことは、子どもにとっては魅力的なのかもしれないし、普段あまり開けることのない流しの下の開き戸を開けて新しいティッシュ箱を取り出すことは一大イベントなのかもしれなかった。ほんとうに悪いことをした。

罪滅ぼしの気持ちもあり、朝の家事を終えたあとで、少し風邪気味の下の子は夫に任せて、図書館の本を返却に行くのに上の子だけ連れて出た。本の返却を済ませた後で、自販機で子どもの好きな山ぶどうの炭酸ジュースを買って、図書館の前を流れる川岸に降りて行った。春休みに家族でそろって花見にきたその場所は、今では葉桜に覆われていた。頭上は緑一色だったけど、足下を見れば、コンクリートで整備された川岸のちょっとした隙間や、土手の斜面には黄色やピンクや紫の、小さな草花がたくさん咲いていて、ジュースを飲み終わった子どもはその花々を大事そうに摘んでは、自分の分と私の分とに分けて、「はい!」と手渡してくれた。そうして、「きょう、はるみつけ、したいとおもってて、ほんとうにできた!」と嬉しそうに手を繋いできた。「そんなこと」で、純度100パーセントの笑顔を見せてくれる子が、愛おしかった。


よく、イライラをコントロールするのに、カッときたら6秒待ってみよう、という話がある。今度から私の場合は、その6秒間に、人の足下を見つめて靴音に耳をそばだてていたことを思いだそうと思う。自分もきた道なのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?