もうもどれない

運動会の季節である。
先週は下の子の、そして今週は上の子の運動会があった。

こどもたちの就園、就学がコロナ禍とだだかぶり、あらゆる行事が縮小され、そのことは概ね歓迎している。だけど今回、上の子の運動会(名称も「運動会」ではなく「スポーツフェス」に変更された)を観ていたら、少し複雑な気分になった。

運動会改めスポーツフェスは、一年生と二年生、三年生と四年生、五年生と六年生のそれぞれ三部制で、児童と観覧する保護者がその都度総入れ替えして行われた。我が家の一年生が出場する種目は、50メートル走・玉入れ・大玉転がし・リレーの四つだったのだが、とにかく、こどもたちが忙しい。一つの競技が終わったら、ダッシュで応援席へ行って水分補給し、また次の競技の待機場所へダッシュ。その競技が終わればまた水分補給へ…(以下同文)。

目まぐるしく駆け回るこどもたちの姿をベスポジで見ようと、親も校庭の周りをぐるぐると移動する。移動しながら、いくつか、子が幼稚園のときからの付き合いの知った顔を見つけて世間話をする中で、「コロナが終わったら、もとの運動会に戻るのかね」ということが話題にのぼった。上に、年の離れた姉や兄がいる、従来通りの運動会の経験者は、「もうもどれない!」と言っていた。一日がかりの長丁場、それに弁当なんかも用意しなくちゃいけない、もうそんなことはできない、ということだった。

確かに、運動会というものは長丁場で、待ち時間というものがつきものだった。わら半紙に印刷された一日のプログラムの、自分の出番のところをマーカーでチェックして、二つか三つ前の競技をやっている間に入場門に移動しておくべし、などという取り決めがあったように記憶している。出場する種目によっては、タイトなスケジュールもあれば、待ち時間がたっぷりとある場合もあって、その待ち時間の過ごし方は、各人に任されていた。

応援席で、自分より上の学年の競技の迫力に圧倒されたり、空いた時間でリレーのバトンの受け渡しの確認をしたり、競技そっちのけで校庭の隅で友達とおしゃべりしたり、足下の砂で遊んだり。

そういう、特に価値が置かれたわけではないけれど、それなりに豊かな時間というものが、運動会改めスポーツフェスからは知らずに失われている。なんだかこれって、あれみたいだ、いつも通る道に、ある日いきなり更地が現れて、「エっ、ここって何があったんだっけ。」と思い出せない。なくなって初めて、そこにあったということが分かるものがある。

その時間を取り戻そう、と、声高に言うつもりはないけれど、知らないうちに消えたものについて思いを巡らすのは、悪くないと思っている。

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