おじいちゃんとの思い出

6月、おじいちゃんが亡くなった。

おじいちゃんのことはもともとあまり好きではなかった。なぜなら、あまりしゃべらないし、遊んでくれなかったからかもしれない。子供のころはそういうことが重要だったんだよな。

おじいちゃんは鉄道と旅行が大好きで、よく一人で色々なところに行っていた。時刻表を見るのが好きだった。旅行は、おばあちゃんともよく行ったがおばあちゃんはインドア派である。私がアウトドア派なのは、おじいちゃんの遺伝子かもしれない。

とてもマメで、イベントがあるとよく来てくれた。本当に無口なんだけど、写真を見るといつもニコニコ笑っていたことに最近気づいた。

家では虫眼鏡で新聞を読みながら昼寝したり、大きなおならをしたりしていた。

プール、ゲートボール、畑で野菜を作る、庭の手入れをするなど、今で言うアウトドア派であった。作った野菜は全然美味しくなくて、農家さんってすごいんだなと思っていた。花や虫にも詳しく、触ると痒くなる毛虫なんかも手でつまんで踏んで殺したりなんかしていた。昔の人なのでいわゆる子育てや家事はしなかったようだが、とにかくマメなので今の時代に産まれていたらイクメンだったかもしれない。

カラオケも好きだったなぁ。基本的に音痴。全然上手くないのにのど自慢にも出たらしいし、都はるみの前で都はるみの曲を歌い、鐘一つ(!)だったらしい。逆にすごい。

小さな町工場を経営していた。いわゆる「ケチ」な人ではないが、質素な生活をしていた。身なりをまったく構わない人だった。貯金と投資をしていて、たくさんお金を貯めていた。ものはほとんど買わないが、必要なものはきちんと惜しまず買うらしい。工場経営の引き際のタイミングもとても的確な判断だったらしい。

すごい人だった。そして、言葉ではなく行動で、どれだけ周りの人を大切にしていたかがわかる。

私にフクロウのぬいぐるみを買ってきてくれていたのは知ってたんだが、孫どころか人にあまりお土産(残るもの)というものを買ってくることがなかったらしく、ぬいぐるみなどを買ってくることは初めてだったのではないか、よっぽどかわいかったのではないかという話をされた。今年になって知った。

両親は共働きなので保育所からの迎えはおじいちゃんにしてもらってた気がする。小学生になったら耳鼻科への付き添い、送迎。中学生になったら駅への送迎(雨が降ったときなどのみ)。もちろん何も話さない。そもそもおじいちゃんとまともに話をした記憶がまったくない。

そして高校生のとき、脳出血で倒れた。それからは右半身麻痺で歩けなくなってしまった。今まで本当にいろんなところにでかけていたので、とてもつらかったに違いない。それから10年間、短かったような長かったような。おじいちゃんも介護してたおばあちゃん、お父さん、伯父さん、お母さんなど、本当にお疲れ様と思う。私はお見舞いとご飯食べるくらいしかできなかった。

ほぼ歩けるようになるのは厳しかったけど、立ち上がったり手すりを使って歩いたりするリハビリも、とても真面目に行っていた。せっかちなのでデイサービスの来る1時間前には玄関で待機していたなぁ。私がせっかちなところも受け継いだかもしれない。

ここ数年は老健と家との往復だった。老健にお見舞いに行くと、とても嬉しそうな顔をした。カラオケもやっていたらしい。

そろそろ亡くなるかもとお父さんから言われたとき、あと一ヶ月と聞いたが実際は一週間となってしまった。運良く会いには行けた。だけど今までのお礼を言えなかった。一ヶ月あればもう一回会えるかなと思っていた。「また来るね」と言ったのに、、、だめだった。

おじいちゃんが食事拒否をしていると聞いたとき、もう生きるのが嫌になったのかなと思っていた。でも、会ったときに、とてもそういうふうな顔には見えなかった。なにかを訴えるような目をしていた。まだ生きたそうだった。

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今年、子供が産まれる。分身なのかなと思いつつ、性別違うし、子供にはプレッシャーを感じてほしくないので、心の中でのみ思って。四十九日を迎えようと思う。今までありがとう。

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