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「夫のちんぽが入らない」を読んだ

こだまさんの「夫のちんぽが入らない」を読んだ。この本には、「包装紙に書かれている、文中から抜粋したワンフレーズのみで本を選ぶ」というアカゲラブックスさんのワンフレーズブックスで出会った。その際タイトルや著者は分からない。

「ちんぽ」(タイトルを略すとこうなる)の包装紙に書かれていたフレーズがなんとなく私が日ごろから大切にしようと思っている価値観とリンクしているような気がして、この本を選んだ。いざ包装紙開けたらタイトルのインパクトすごくてびっくりした。

ちなみにその場に居合わせた友人には「希和さん、選ぶとしたらこの本じゃない?」と見事に当てられている。私の大切にしていることが周りにも伝わっているような感じがして少し嬉しかった。(その前にこんな感じのことがテーマの話をみんなでしていたというのもあるかもしれないけど。)

「私」は夫のちんぽが入らない。ちんぽが入らないので性交渉のないまま夫婦になった。幾度となくトライを重ねた結果の「半ちんぽ」という状態はあるらしい。

周りは当然ちんぽが入ると思っているので子供はいつか、などと聞いてくる。当然本人たちはいじわるで聞いているのではない。それが「当たり前」だからだ。そういう場面に出くわすたびちんぽが入らない「私」に小さな棘が刺さる。

ちんぽが入らない夫婦が子供は作らないと決めた後も、「若いんだから諦めなければできる」という人がいる。もちろんその人にも悪気はないのだけれど、「夫婦は子供が欲しいもの・小作りに励んで当然」というその人の「当たり前」を無意識のうちに振りかざしてしまっている。言われた側はなんとなく間違った選択をしているような気持ちを、そういうことを言われるたびに刷り込まれていく。棘が刺さっていく。
「作らない」のかもしれないし「作れない」のかもしれない。これは端的な結論だけで、その結論に至るには様々な背景や葛藤があったかもしれないし、なかったかもしれない。紆余曲折はなんにせよ、当事者2人がそういう結論を出したのだから、他人が2人の選択をないがしろにしてはいけないし、理由を勝手に推測してやさしさのつもりで「普通」を押し付けるのはやめたほうがいい。

そういう感じでいうと、私の場合は「一人っ子はさみしい」「片親はかわいそう」「親がレスリングをしていたから私はほかの道を選べなかった」みたいな同情をたくさんされてきた。

一人っ子のさみしさはあまり意識したことがないし、片親であることもどうとも思ったことはないし(父母両方いるに越したことはないけれど、それでギスギスした家庭で育つよりは全然いい、というのが個人的な気持ち)、レスリングに関しては高校までやってなかったし、止められていたのに勝手に寮に転がり込んでその世界に飛び込んでしまった。

もちろん一人っ子でさみしい人だって、片親で悲しい思いをしてきた人だって、自分に人生の選択肢がなかったことを嘆いている人だっていると思う。私がたまたまそうでなかっただけだ。
なにより私は私のことを不幸だとは微塵も思っていないし、むしろ幸せな人間だと思っているし、こんなにすくすくとすこやかに育っている。
一言も私から「私は一人っ子で片親で自分の道も自分で選べなくて可哀想なんです。」なんて言ってない。思ってもいない。

私がこの境遇で育ってきて嫌なことがあるとすれば、そういった方々から要らぬ同情や優しい言葉を頂くことだ。

そうやって周りの人に「可哀想」だと今まで何度か言われてきた。他人が同情や優しさのついでに「あなたは普通じゃない」「あなたは可哀想」というレッテルを貼って行く。

そういう辛さは「子供を作らないと決めた人」や「結婚しないと決めた人」もたくさん味わっていると思う。子供を作ることや結婚することは、みんなが望んでいて、よしとされていて、普通のことだと思われているから。

その人が選択した答えや人生には、その人にしかわからない気持ちや背景がある。

他人から分かるのはせいぜいその答えだけ。そうであるなら、自分の「当たり前」を押し付けてはいけないし、その選択を否定する権利もないはずだ。自分の「当たり前」や「普通」ほどあてにならないものはないと私は思っている。

気持ちや背景など、すべてを聞いて理解してあげることなど到底できないのだから、「自分の知らない・想像できない背景がある」ということを常に意識しておきたい。

人の気持ちや価値観や選択はその人のもの。それを忘れて自分の「普通」が他人にとってもそうだという前提で接してしまうと、悪気なく傷つけてしまう可能性があることを忘れずにいたい。




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